25.04.17【宮台執筆】荒野塾雑談篇Vol.09の口上|なぜ野外実践とコンテンツ実践をするのか?~デリダの「証言の言葉」と、芸術の「言葉のために機能する非言語」

なぜ僕ら(阪田チームと僕)が、森のキャンプ・海のカヤック・森のようちえんなどの実践に関わるのか。問いに答えて「社会という荒野を仲間と生きる」ことで、社会のクソ化や人々のクズ化に抗って、いつ花咲くか・花咲かないかも判らない種を撒き続けて伝承線を確保するためだ…という答えを繰り返してきた。

だが、そんな一言では伝えられない動機が底には横たわっている。それを語らないままではモヤモヤするなという思いを溜め込んできた。今回は長い時間をとって、深い底に横たわる動機をできるだけ広くみなさんにお伝えしよう思う。今回の荒野塾雑談篇が従来の配信に加えて対面イベントになった理由だ。

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鍵言葉は、阪田主催の宮台宗教論で幾度か話してきた、ヨハネ福音書に頻出する「思い出させる」だ。「ブラックな社会」を温存する「週末のサウナ」ではなく、その外に開かれるための「傷を付ける」のだと。その意味で、ロマン派以降の芸術(近代芸術と現代芸術)の、そもそもの企図と、同じ目的を掲げてきた。

ひと口で言えば、この社会に適応して生きる営みと、それゆえに適応度に応じた自意識(劣等感や優越感)を抱いて生きる営みが、いかに浅ましく・さもしく・なさけない「閉ざされ」であるのか、うまく社会を生きられているという自意識がいかにショボイものなのか、を、子供にも親にも「傷として」刻むということだ。

社会に適応するのではなく、飽くまで「適応したフリ」に留めて、社会の都合良き操り人形にならないようにさせるのだ。とはいえ、ヒトは言葉を使うだけで、社会の操り人形になりがちだ(ラカン)。気が付いた時には「ミイラ取りがミイラになる」だろう。僕らはそれを織り込み済みで前に進む。どのように進むのだろう。

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いつか判らないけれど、いつか刻まれたものが「思い出される」時がやってくる。今『宮台人類学』と『宮台経済学』(共に仮題)を執筆中だが、同じ思いだ。いつか判らない が、いつかソコに何か書いてあったなと「思い出される」時がきて、再読してもらえればいい。そんな思いで、読者に深い傷を刻むべく書いている。

重厚な学問の数々を語り伝えてきた先人らの営みも、あぁみんなはこれを忘れるべきではなかったのだという思いに駆られ、ならば自分が語り継ごうという思いでなされてきただろう。加速主義的な加速を待たずに今社会は底を打ちつつあり、そこからリバウンドが始まるだろう。リバウンド後の上昇をこそ加速すべく、知恵のリソースを整えておこう。

90年代に「記憶なき若者のノスタルジー」ブームが訪れた時、「自分が」忘れた訳ではないだが「社会が」忘れてしまったことがあるかも…と想像してリグレットする未規定な営みがあるのだという事実を胸に刻んだ。そして、コロナ禍後からは「昭和ノスタルジー」ブームだ。今こそ失われたものを「証言」する営みが必要ではないか。

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デリダはアウグスチヌス『告白』を引き、体験の「証言」こそが語るに値し、語るに値する体験を与えるとした。真理は「これが真理」と肯定神学的に宣べ伝えられるのは不可能で、失ってはいけなかった「知らない何か」として否定神学的に宣べ伝えられる他ないのだと。そんな特殊な文脈でのみ否定神学を擁護した。

体験していないのに「懷かしい」という不思議な体験の前提は、社会や人々がどんどん劣化しつつある=社会や人々が「何か」を剥奪されつつあるとの、漠たる思いだろう。剥奪感は、それによる不安で、多数者(クズ)を、埋め合せの神経症的営みに促す一方で、「知らない何か」を伝えよう・受け取ろうという営みに、少数者(マトモ)を促すだろう。

吉本隆明『共同幻想論』を「思い出す」。彼は自分で認める通りバタイユに似て、対なるものの全体性(対幻想)から共同体なるもの(共同幻想)が分出、やがて全体性を対なるものから共同体なるものへと頽落させる統治権力が生じたのだと言う(母系父権から父系父権へ)。ただの集団が共同体を詐称するのが全体主義だとも言った。

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統治権力の誕生で、動物に普遍的な「予測符号化」が、ヒトに特殊な「言語的予測符号化=予期」へと閉ざされた。吉本が記紀神話でも古事記に注目したのは、遊動民・初期定住民の、頽落の「予期」ならぬ「予感」が、詩的言語で記されていたからだと、予期理論家の僕は推測する。だから「予感」の体験を再体験させるべく30年コンテンツ実践に拘ってきた。

先日、宮台ゼミOBの芸術家・中島晴矢の個展でトークした。主題は奇しくも「体験を証言する」だった。証言は言葉だが、言葉として理解されるだけでは、証言は失敗だ。証言が指し示す、言葉になり切らない体験が、再体験されねばならない。言葉は体験記述(肯定神 学)ならぬ単なる引き金で、体験自体は記述に余りすぎる(否定神学)。

言葉はクオリア(体験質)の呼出しボタン。だから映画やインスタレーション等の芸術作品にとって口上や批評の言葉こそ重要だ。芸術に言葉は要らない云々の劣化した発想を逆転せよ。口上や批評の「言葉」がまずあり、それが記述不可能な体験を召喚できるように次に「作品」が機能する。自らは体験がない人に、忘れてはいけなかった体験を召還すべく。

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僕にそれを気付かせたのが中学時代に観たゴダールと足立正生だ。批評家が映画を撮る営みが、比類なき傑作を生むのは、まず、「証言の言葉」があり、次に、証言が示唆する名状し難き体験を、再体験させる「非言語表現」があるからだ。今ならバク・チャヌクだろう。最高傑作『別れる決心』が描く探偵的刑事と天才殺人者の恋はどうか。

江戸川乱歩『黒蜥蜴』や実相寺昭雄「京都買います」(『怪奇大作戦』)の引用に留らず、”探偵が犯罪者との恋に道を踏み外すのは、「対幻想の全体性」が「共同幻想の全体性」を容易に踏み越え得るほど社会がツマラナイからだ”との批評がまずあり、次にその批評が「みんな知りつつ言葉にし切れないツマラナサの体験」を召還できるように映画が機能する。

そこでは、監督の証言が示唆する、彼自身のツマラナサの「言葉にしようもない」体験を、観客が「言葉にしようもなく」再体験させられるだろう。思えば、愛知トリエンナーレの殆どの作品に、体験を「思い出す」ことを強いる力がなく、社会に媚びた学問的に出鱈目な口上(多様性やSDGs)で、粉飾的に「説明」されていたのとは、対照的だ。

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証言が「言葉にしようもない」体験を召還できるのはなぜか。召還の前提は、ベンヤミンを踏まえて論理的に考えれば、「同じ世界を生きている」という信頼だ。その信頼は、ヴィトゲンシュタインを踏まえれば、全言語ゲームの前提であり続けてきた。だから、信頼の根拠を言語で(言語ゲームで)示せない。だが、今はどうか。一国内でさえどうか。

無差別殺傷や引きこもり&孤独死が示唆する「誰も見てくれない」体験(映画『ダークナイ ト』)が蔓延する社会──パーソンズが言う「視界の相互性」なき社会──は、”誰もが”どころか”誰かと”「同じ世界を生きている」という信頼を既に失いつつないか。逆説的だが、匿名的多数への見栄えを気にする若い人はどうか。

社会は今や自意識の中にしかない──それはSNSで定期的に再燃するスナイデル系と古着系の論争に如実だ。ステイデル系は白やピンクのふんわりシルエットやレースやリボンの女子らしさを基調とした「量産型モテ系」。古着系はヴィンテージやくすみカラーやオーバーサイズのシルエットにジェンダーレスやサブカルチャーを加えた「他人と被らない系」。

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息抜きの時間だ。ステイデル系は「媚びてる」「芋くさい」「パパ活服だ」と、古着系は「店員に態度悪い」「男を寝取る」「性病持ちだ」と批判される。モテるか否か。量産か否か。不毛な対立を尻目に、どちらにも属さないよと現れたのが「無印女子」だ。オーガニックな身の丈消費と丁寧な暮らし。「ファッションで勝負しない」「媚びない」と“素の私”を扮技した。

だが、すぐに「純潔なふりをした女」「意識高いくせにダサい」と揶揄され、ステイデル系や古着系と横並びになった。そしてこの4月、全てを冷笑しつつ自虐的に登場したのが「ゴミ布系」だ。スナイデル系のモテ・清楚路線でも、古着系の脱モテ・個性路線でも、無印「ブランド」でもなく、「床に脱ぎ捨てた服の山から何かを拾って着るだけ」と気取る。

だが、「スナイデル系と古着系の謎バトルを見るトコジラマー女子の私」「どのジャンルにも染まらずにファッションゲームを茶化すメタい私」という自意識にも拘らず、しっかり「ゴミ布系」と名が付いてバズる時点で、メタいどころか横並びのキャラだ。かつて『サブカル神話解体』に記した「オタクの階級闘争」に似ている。いずれその理由を分析しよう。

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話を戻す。計量的には、若い人にとって、対面づきあいのシンドサによる忌避の、自意識上の埋め合せがSNS。親密な対面づきあいが前提とする「同じ世界を生きている」という信頼は論理的に不要だ。人や社会が、風船の内壁に投影された自意識に過ぎないと分かったとしても、それ以外の体験をしたこと・受け渡されたことが、既にない。

それを踏まえて言う。「同じ世界を生きている」という信頼を、何が醸成するのか。エマソンが言う、人や社会に対して「力が湧く」という不思議な内発性こそが、ヒントだ。このヒントから答えが導かれる。答えは、シュタイナーに従えば、共同身体性(君がいれば恐くても恐くない)と、それを前提とした共通感覚(君もそうだと予め知っている)だ。

それぞれ彼の第1臨界期・第2臨界期に対応する。僕らが前提とするのは、共同身体性と、それを前提とする共通感覚─「身体的感情能力」──だけが、「同じ世界を生きている」という、考えればありそうもない信頼を、醸成してきたという事実だ。だから「野外実践」と「コンテンツ実践」に拘る。前者は体験を与え、後者は証言を通じた再体験を与えよう。

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コンテンツ実践で思い出したことがある。今オンエア中のNHK「村上春樹ドラマシリー ズ-地震のあとで」だ。第4回(4/26)放映予定「かえるくん、東京を救う」は原作を何度も論じたから、ここでは、今回話したいことに深く関連することもあり、第1回放映済み(4/5)「UFOが釧路に降りる」について話すことにする。

偶然のシンクロだが、第1回は「名」についての作品だ。口にされる鍵言葉は「名」と「箱」と「付き纏う影」。何がシンクロするのかは後に譲るが、そこでの「名」とは、哲学では固有名のことだ。何も知らないのに、唯一絶対神に固有名があるというどういうことか。ひいては、何も知らないのに、人に・相手に固有名があるとはどういうことか。

「相対」の私は・私たちは、「絶対」の神のことを、何も知らない。ひいては、「短い」時間の体験しかない私は、「長い」時間生きてきた相手のことを、よく知らない。何も知らない・よく知らないのに、「名」で呼べるのはなぜか。固有名で指せるのはなぜか。それを徹底的に考え抜いたのが、クリプキの『名指しと必然性』という書物だ。

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時間をかけて知っても、知り得たことは「有限」で、それに当て嵌まる相手は沢山いる。知り得たことを圧縮した略称が「名」なら、相手は置換可能だから、固有名にならない。彼は答える。何も知らないから固有名があると。固有名が指し示すのは、よく知らない⟨世界⟩ (ありとあらゆる全体)が、それでも私にもあなたにもみんなにも確かに存在することだと。

オースチンの発話行為論を援用すれば、固有名の使用は、①よく知らない⟨世界⟩がそれでも確かに存在すること、②その⟨世界⟩は私にもあなたにもみんなにも共通することを、遂行的に前提としており(機能的前提)、固有名の使用で①と②を信念として表明したことになる(機能的帰結)。クリプキは分析哲学的な論の運びで、それらを完璧に論証した。

クリプキは高校時代から哲学学会で数理哲学・分析哲学の天才として知られた。だが、本当の関心が言語ゲーム論にあったこと、とりわけ固有名を使う言語ゲームが何をしていることになるのかにあったことを、後に明かす。あぁ本当の天才とはクリプキみたいな人のことを言うのだと、大学院生時代の僕は実感した。そして、僕のロールモデルになった。

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よく知らない⟨世界⟩がそれでも存在すること。その⟨世界⟩が私にもあなたにもみんなにも共通すること。これらは普遍的な体験だ。そこで、絶対者である神を指し示すために言葉の無用性を指摘する「否定神学」に対して、西山雄二は、この普遍的な体験を指し示すための「中性的なもの」(規約的な指し示しのない言葉)の有用性を主張した。

「否定神学」では規定不可能性を前に「言葉を諦める」のと違い、「中性的なもの」では規定不可能なものの存在(の体験)を指示すべく「言葉が使われる」。ルーマンはそんな言葉を「サイファ」(暗号)と呼んだ。否定神学が「神は〇〇でも△△でもない」と述べる時、「神」という名を主語とした瞬間、常に既に、言葉がサイファとして使われていると。当たり前だが。

そのことを、冒頭、「証言という言葉」を引き金に「言葉にならない体験」を再体験する・させると述べた際に、理論的な前提にしていた。敷衍すると、言葉の指示対象とは違い、証言が引き金をひく体験の「思い出し」や「再体験」は、所有できない(ブランショ)。「神は」という語り出し同様、「君は」という語り出しも、既に所有できない体験の、証言なのだ。

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つまり「名」は証言なのだ。「神の名」や「君の名」を考えれば思い半ばに過ぎようが、証言が引き金をひく体験は、動的かつ未規定ということだ。だから、⟨世界⟩同様に「瓦礫に一瞬浮かび上がる星座」(ベンヤミン)としてしかない。とすれば、「名」の向こうにある動的な未規定性を、絶えず体験する能力を欠けば、「名」は未規定な体験を呼び出せずに空回りする。

「UFOが釧路に〜」の主人公の妻の名が「未名」なのは、「名」の空回りを指す。ドラマにも原作にも「名」の空回りによる不安が満ちる。所詮はこしらえものの社会によってボットみたいに操縦される「言葉の自動機械」が、溢れるからだ。その社会のこしらえものぶりを、遠雷のごとく遠くの震災が炙り出した瞬間、不安が堰を切るだろう。

村上作品は「批評」ならぬ「消費」だと言ったのは江藤淳だが、それは単に、関係性の機微を描かないから、読者にとって関係性的な自分事化による「批評」的な刺さりが、ないだけ だ。村上作品は既に話した意味で存在論が核だから、多くの読者が常に何とはなく感じてきた存在論的違和を言い当てられて、ホッとする。それを「消費」と呼ぶのだろう。

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言葉で捉える限り、存在は全て未規定。未規定だから存在すると言える。だから、「名」はいつも「よく知らないが…」を含意する。なのに、それを忘れて、「名」が指すものの自明性に淫し、「言葉の自動機械」に堕する者だらけ。だから、大切な人が何かを探してどこかに消え、主人公がその理由を薄々感じつつ大切な人を探す。

愛についての話は全て認識論になりがちだ。どうすれば愛せるのかという問題設定が象徴的だ。だが、あなたは「誰」を愛しているのか。あなたは「名」を答えるだろう。だが、「名」という箱(!)の中に何が存在するのか本気で知ろうとしたことがあるか。そう、「中身が不明な箱」が本作では重要なモチーフだ。村上作品が存在論である所以だ。

認識論(どうすれば愛せるか・なぜ愛せないか)は、関係性を巡る実存に刺さるから、「批評」 (読者を淵に立たせる)になりやすいが、存在論は、「名」を前提とした生にとって「付き纏う影」のような違和感に関係するから、世界は確かにそうなっているという寓意的な安心を求める者にとって、「消費」になりやすい。「付き纏う影」も本作に出て来る鍵言葉だ。

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ウェーバーの人格・没人格の区別を前提にして、人格youならぬ没人格itとして扱われると尊厳(内から湧く力)を失うという体験を記したブーバー。youは置換不可能(目的)。itは置換可能(手段・道具)。彼が愛馬の逸話として記す通り、youとして扱うかitとして扱うかは属性に無関係で、存在に開かれるか否かにのみ関係する。

敬虔なクリスチャンであるブーバーいわく、善行したから救えと神強制する人は、神を道具itと見做す。対照的に、神に存在youとして見られるだけで力が湧く人にとっては、神も存在youだ。だから、ブーバーにとって、認識論(どんな条件があれば道具と認識できる?)の地平は「俗」で、存在論(属性不明でも存在するとは?)の地平は「聖」だ。

それを踏まえると、「俗なる時空」で苦しむ人が、ある偶然を機に「聖なる時空」に連れ出されることがある。それをこの30年「⟨社会⟩から⟨世界⟩へ」と呼び、その偶然を「⟨世界⟩からの訪れ」と呼んできた。だが、やがてそれに続いて「⟨世界⟩から⟨社会⟩へ」のフェイズがやって来る。すると再び「俗なる時空」で再帰的に(喜んで)もがき苦しむようになる。

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ドラマ『地震のあとで』の原作『神の子どもたちはみな踊る』など阪神淡路大震災後の村上作品は、それまでの「⟨社会⟩から⟨世界⟩へ」のあとで、「⟨世界⟩から⟨社会⟩へ」を描く。「俗から聖へ」から「聖から俗へ」。ドラマ第4話「かえるくん、東京を救う」が典型で、それが元ネタの新海誠『すずめの戸締まり』もそうだ。

人も社会も宇宙もいずれ死に滅びるのに、なぜ私は生きるのか。私は何をしているのだ。今世紀に入り、人や社会の自明性が崩れて(こんな筈じゃなかった感)、「認識論から存在論へ」のあとで、「存在論から存在論的認識論(再帰的認識論)へ」がやってきた。「存在の奇蹟を知る者だけの認識論」と言ってもいい。

「地震のあとで」という言葉だけで引き金をひかれる体験──。そのモチーフを、SF作家バラードの1960年代「破滅三部作」が初めて文学にした。『結晶世界』を見よう。全宇宙の結晶化が始まった。最初は天文学者らが気付いた。程なくコンゴ川上流の森で結晶化が始まる。調査に出た学者らは、なぜか誰1人として帰って来なかった。

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彼らは次々「俗から聖へ」と誘われ、結晶化した森で自らも結晶化することで、空回りする「名」を捨てようとした。だが、主人公の医師サンダースだけは、森に誘われかけつつも、「聖から俗へ」と帰還することを決意する。それは単なる帰還ではなく、三文小説的な色恋沙汰を敢えて生きる、再帰的な帰還だった……。

高校2年で読んだ。読了後は泣き続けた。何日間も。それが僕に深く刻まれた。「社会から世界へ」のあとで、「世界から社会へ」。地震のあとで・戦争のあとで・破滅のあとで、あるいはそれらの「あとで」を先取りして、再帰的に社会を生きよう。存在論的認識論を突き進もう。そんな僕の図式は、高2のバラード体験が出発点だった。

十年後、村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で似た体験を反復した。この作品では、世界の終わり(聖なる存在論)を体験した者が、再帰的にハードボイルドワンダーランド(俗なる認識論)を生きようと決意する。やはり大泣きした。「消費」では済まず、むしろ心に傷を負う「批評」を体験させられた。

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ところが『結晶世界』『世界の終わり〜』の如き存在論的作品はSF的特殊モチーフがないと描けず、そうそう思いつけない。思いつけたにせよ、思いつき競争になれば「消費」モードに頽落する。だから、村上は読者を号泣させる作品を一作に留め、存在論の香りで、違和感を抱いて生きる読者を「違和感は当然だよ」とホッとさせる、「消費作家」になった。

だが僕は「消費」できなかった。遠雷や、遠くの地震みたいに、『世界の終わり〜』の「批評」的な傷付きが疼いた。だが、阪神淡路団震災後に村上は変わった。読者に「見たくないものを見せて」存在論的不安を自覚させ、刻まれた傷ゆえに生き方を変えざるを得ないような作品を、再び描き始めた。それらは「思い出せ」と僕らに強いるだろう。

あなたは「思い出せる」か。必要なのは、所詮はこしらえものの社会の、こしらえものぶりから目を背けることではなく、こしらえものぶりを見据えても動じない免疫の獲得だ。それには、社会に適応せず適応したフリに留めるべく、言葉にならない体験を実装、証言でいつでも引き出されるようにする。そうすればきっと「思い出せる」だろう。

有料トークイベント+LIVE配信【荒野塾・雑談篇Vol.09】語らぬものが語る〜デリダの「証言の言葉」と、芸術の「言葉のために機能する非言語」と、僕らの「野外実践&コンテンツ実践」(体験デザイン研究所宮台真司・阪田晃一)