2024.11.01←2019.04.19【宮台執筆】歌謡曲を支えたラジオのAM性を、FM性と対比して改めて論じる
*2019.04.19【宮台ツイート連投】ラジオのAM性とFM性 を補完した内容です
が、10月26日28時からの「近田春夫×小泉今日子_M.A.A.D MIX」に昭和歌謡曲
ノンストップミックスを提供して解説文を公開した機会に、歌謡曲史を支えたA
Mラジオ深夜放送の意味を再確認することも兼ねて、ここに公開いたします。
AMラジオの聴取形式を60年代後半の深夜放送が確立した。正確にはAMラジオに
しかあり得ない享受形式を知らしめた。具体的には「この人だけが私たちを分かっ
てくれる」という「声の私秘性」。 だから深夜放送をベースに浮上したのが自作自
演のフォークだった。 十年後の第2次深夜放送ブームでもニューミュージック(ア
リスやさだまさし)が浮上した。詳細は『サブカルチャー神話解体』1993年参照。
「この人だけが私たちを分かってくれる」という私秘性にとって「耳元で語ってくれ
ている」という近接性が重要で、近接性にはリアルタイム性が重要になる。 音声言
語から書記言語への歴史がヒントだ。音声言語時代は詩的言語が優位だった。理由
は歌と同じく記述と動機付けが分離できなかったからだ。音声言語は抑揚・ピッチ・
韻律・強弱・挙措で変性意識状態を惹起しやすく、容易に巻き込み機能を帯びるのだ*。
*僕は小学校高学年で深夜放送ブームを迎えた。家族が寝静まった深夜に枕元のラジオをつ
けてTBSラジオ「パック・イン・ミュージック」の「中村メイコの『私のロスト・ラブ』」
に耳を澄ました時のトランス感を忘れることはない。
その分、音声言語は近接的文脈に依存する。ゆえに異なる文脈が混在する大きな空
間を直進できずに屈折する。対照的に書記言語は近接的文脈に依存しないから文脈
がハイブリッドな空間を長く直進する。だから広域統治に必要な、首長のメッセー
ジの広域的共有や行政官の広域的情報共有が可能になり、文明を支えた。結論を先
出しすると、機能的には、AMは音声言語に、FMは書記言語に、類似している。
理由は、搬送波の形式ゆえに音が劣化しにくいFMが専ら音楽番組の媒体となり、
会話(音声言語)が極小だったからだ。加えてFM音楽番組では、どんなセトリを
組むかが直接的に価値観や世界観の表明(=共有の呼び掛け)になったことも重大
だ。プラトンの詩人と哲人の対比を参照すれば、AMは詩人的な「近接性による感
染」の媒体、FMは哲人的な「世界観による納得」の媒体だと言うことができる*。
*昨今はAMの音質改善で、AM波でFM的な音楽主体の番組を作れるし、今世紀のロー
カルFM局がそうであるようにAM的なトーク主体の番組を作れる。だから今日では、
問題は搬送波ではなく、「近接性による感染」か「世界観による納得」かという番組制作
の機能的焦点になっている。
さて昨今は「複製技術による芸術の時代」(ベンヤミン)。ソレ(与件)を通じてソレで
ない何か(世界の世界性)を体験するというアウラ体験が急速に消えた。ソレという
時空の局所性(特殊な場所)を通じて全域性が降臨することが、なくなった。「今こ
こ」性による「聖」性が、消えた。録音されたレコードを様々な場所で聴けることで、
「聖」性は、「今ここ」の時空ならぬ、作品(と作者)に帰属されるようになった*。
*【宮台動画】荒野塾・雑談篇vol.05 (無料配信)|荒野塾「社会学講義」の内容・参加方
法・レポート採点のポイントについて|ベンヤミンの『アウラの喪失』が意味するこ
と(複製技術時代の芸術論)|宮台真司・阪田晃一
https://www.youtube.com/live/LQ_L9G2VjUQ
プラトンの「詩人から哲人へ」は抽象的には「体験から情報へ」。体験を前提付ける要
因は未規定。つまりlexiconで定義できる情報(言語や楽曲)を引き金にするものの、
体験は外から「やってくる」。それを忘れて情報(言語や楽曲)に全てを帰属する営みが
「理性の暴走」や「聖性の暴走」を招く。それが「神経症的不安からコシラエモノの全体
性への依存が生じた」とするフランクフルターとは異なるベンヤミンの分析だ。
ブラトンは「大規模統治時代における詩人の危険=感染の危険」を訴えた。それを踏
まえてベンヤミンは「複製技術時代における哲人の危険=納得の危険」を訴えた。更
に抽象化すると、前者は、近接性を前提とした「徴候への過敏」というS親和的(統合
失調的)な「部分の全体化」の危険に、後者は、遠隔性を前提とした「情報による操縦」
という神経症的な「部分の全体化」の危険に、対応している。
以上の哲学史的な最低限の教養を踏まえれば、AMラジオの「近接性=感染性=微熱
性」とFMラジオの「世界観性=納得性=反微熱性」は、「どちらが良いか悪いか」を決
することはできないし、「社会が未来の希望を失うことでAM性からFM性にシフト
する流れ」に適応せよということはできない。「常に既に」AM性はFM性による中和
を要求し、FM性はAM性による中和を要求するのだ、と言える。
CM無断差し替え問題の不祥事で退任したTBSラジオの三村孝成元社長(会長)
が、Jwaveでの自らの功績を自認する余り、腰巾着らとの合作でAM性を消去して
FM性に特化すべく数々の名物番組を終了させたが、その無教養な頓馬ぶりは、組
織全体の情報創発性を奪う権力行使の問題とは別に*、AMラジオの享受体験とFM
ラジオの享受体験の「差異と補完性」についての無知にも及んでいる。
*沈みゆくラジオの王様TBSラジオの“独裁者”が破壊する「数字」と「社風」2023.3
https://bunshun.jp/articles/-/61164