2024.10.29【宮台真司】荒野塾・秋学期「社会学原論」「社会意識と社会構造」のコンセプト

(まず「戦後歌謡曲の流れをコードで整理する」「続・戦後歌謡曲の流れをコード
で整理する」をお読みいただいた上で、以下をお読みください)

こうした宮台の理論と方法論を習得したい人は、順を追って前提を構築しないと習
得することはできないので、11月からはじまる荒野塾の連続講義を受講してくださ
い。この理論と方法論を習得すると、同一の枠組で、政治・宗教・性愛そのほか
諸々を鋭利に分析出来るようになります。頓馬な反射reflexから全体性を参照した
反省reflectionに舵を切りたい人は、受講する必要があります。
https://www.miyadaiseminar.com/course/2024fall/

極右天皇主義者でもあった小室直樹氏と、極左暴力革命主義者だった廣松涉氏が、
僕の頭と心に最も深いものを刻んだ師匠です。共にいわく〝下手な考え、休むに似
たり。「方法の合理性」と「文脈の全体性」を伴わない思考は思考していないのと
同じ〟と。あなたは大丈夫か?思考したつもりの「やってる感」に淫していない
か?お二人は博覧強記に見えますが、共にいわく〝頭が悪い人は何かにつけ「私の
専門ではないので」と口にするが、一般性の高い(=文脈自由な)方法論を実装すれば
文脈自由性ゆえに「何でも扱えて」博覧強記に見えるだけだ〟と。

ただし急いで付け加えると、抽象的な概念操作は訓練された頭の良さを必要としま
すが、それだけでは足りません。その概念が何を意味して何に使えるのかは、辞書
的語彙目録lexiconでは足りないのです(ラカンの「ゼロシニフィアン」問題)。そ
の概念を引き金に「何を思い出せるか」が全てを左右するからです。四半世紀に渡
り体験質qualia問題として語ってきたのは、そのことです。

「外遊びする暇があったら、恋愛する暇があったら、勉強しなさい」と諭して「やっ
てる感教育」に淫する親や教員が40年前から溢れ始めました(新住民化)。この手
の頓馬はカネで買えるテンプレの「良い体験」を買おうとします。それを体験格差
問題として批判する輩も、同レベルの「やってる感リベラル」。私の母はそうはせ
ずに、わざと僕を紛争校の麻布に叩き込みました。母の言い方では「育ちを良くす
るため」です(自叙伝参照 https://is.gd/f0UUZv

昨日の荒野塾・雑談篇 https://mjqq.hatenablog.com/entry/2024/10/29/095102
は、ベンヤミンを入口にして、そのことを考えました。フランクフルト学派は全員
共通に、ナチスを「理性の不全」ならぬ「理性の暴走」として捉えます。デュルケ
ム由来の「理性の理性以前的前提がないと、理性にならない」とする「前提を遡る
生態学的思考」です。「理性の理性以前的前提」をベンヤミンは「ソレが与えられた
時、ソレではない何かが見える能力」とします。中井久夫の「S親和性」とほぼ同
じです(https://is.gd/uMY1Vt)。

ソレではない何かがアウラです。だからアウラをadvent of divinity神性降臨に擬え
ます。神性とは未規定な全体性の謂いです。そして未規定な全体性を参照する営み
がアレゴリーです。ここにはコードの重ね焼きがあります。「アウラの欠如・対・
アウラの豊饒」≒「シンボル(規定可能な部分性)・対・アレゴリー(規定不能な全
体性)」≒「条件プログラム・対・目的プログラム」≒「自発性(損得計算)・対・
内発性(端的に湧く力)」≒「一神教的・対・ギリシャ的」です。左項が不快で、右
項が快です。

そんな当たり前のベンヤミンの全体性を教える能力を持つ大学教員が今は皆無で
す。なぜか。「育ちが悪いから」です。昨日の荒野塾・雑談篇のパートナーは、僕と
共に「風の谷・体験デザイン研究所」を立ち上げ、一緒に様々な「安全でない・便
利でない・快適でない」体験の享楽をデザインしてきた阪田晃一氏です。短く言え
ば、身体能力と感情能力を欠いた理性能力は生態学的に不可能。シュタイナーの3
臨界期に対応します(最新刊『子どもを森に開け』 https://is.gd/d1xqIi)。

勉強のために(特に最近では言葉の自動機械だらけになった周囲に適応するため
に)体験を犠牲にさせられた覚えがあるあなたは、社会システム理論を入口に生態
学的思考を学んだ「つもり」でも、実践には全く通用しないでしょう。何百人も見
て来ました。荒野塾を主催するのは「風の谷・体験デザイン研究所」です。そう。
荒野塾の高度な言語的講義は、言語の森羅万象的な運用に不可欠な全体性への敏感
さへとあなたを誘うための「扉」であり「標識」です。

そこでは、言語や言語的命題(つまりシンボル)は、言外や非言語的直観(つまり
アレゴリー)に通じる「扉」であり「標識」です。向こう側にあるのは、言語を使
うことでは学べない世界の全体性。郡司ペギオ幸夫の「やってくるもの」であり
https://is.gd/3HzMPt)、宮台が四半世紀前から言う「訪れ」です(https://
is.gd/QF8Sb1)。だから荒野塾で学んだ後は、同じ「風の谷・体験デザイン研究
所」が主催する森や海での、安全・便利・快適を「鼻で笑う」野外実践に乗り出し
ていただいてもいい。やがてあなたは、そばにいるだけでワクワクさせる人になる。

そうお勧めするのは、あなたが頭が良くてもモテない理由が、あるいはより一般的
に生きづらい理由が、そこにあるからです。意識高い系のあなたは、身体と感情が
劣化した者にスペックで選ばれるだけで、たぶん孤独死するでしょう。その手の輩
を「クズ」と呼びます。そんなクズがエリートとして、社会を、都市を、街をデザ
インするとき、その社会も都市も街も「クソ」になります。そして今、クズが湧き
まくってクソ社会を引き回す状態が放置されています。それをあなたは知っている。

制度の自明性を超えて制度を変えれば社会は良くなるとする、クソフェミに見られ
る「構築主義者」を、プラグマティストのローティが「文化左翼(やってる感左
翼)」だと嘲笑するのも、そのためです。この手の輩は例外なく、差別語狩りやト
ーンポリシングを「良いこと」だとします(吉本隆明)。「怒鳴り合いや取っ組み
合いを経て仲良くなれる」のはなぜか。「あなたがいてくれたら、怖くても怖くな
い」という感覚によって冒険に誘われるのはなぜか。それが分からないのは「育ち
が悪い」から。頭が良くても魅力がない。あなたはそんな実例を既に知っています。

2024.10.30 宮台真司(社会学者・映画批評家)