【連載・社会学入門(2004)】十三回:「行為」とは何か?
MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司
■連載の第一三回です。前回は「社会統合とは何か」をお話ししました。例によって復習
しましょう。社会統合の観念は、社会秩序の観念と等価に扱われがちです。しかし、秩序
の「合意モデル」ではなく「信頼モデル」に立つ私たちは、両者を区別して扱うのでした。
■秩序とは確率論的な非蓋然性(ありそうもなさ)です。正確には、ミクロ状態の差異に
よって区別される場合の数が相対的に小さなマクロ状態です。社会秩序という場合、行為
の織りなす秩序のことを言います。ミクロ状態の差異が行為によって定義されるわけです。
■社会システム理論における社会秩序の観念は「あるべき社会」についての価値観からニ
ュートラルです。ですが社会学史を振り返ると、行為配列の単なる確率論的な非蓋然性を
超えて、ある特定の性質を有する非蓋然性のみを社会秩序と称して来ました。
■そこには「あるべき社会」についての先入見が反映しています。そこで、社会システム
理論家は、社会秩序とは別に社会統合の概念を以て、この先入見に対応する社会秩序観念
を取り出そうとします。従って、社会統合の概念は、社会秩序よりも特定された概念です。
■「あるべき社会」についての先入見とは、連載で紹介した社会秩序の「合意モデル」か
「信頼モデル」かということです。社会統合の概念を導入することによって、「合意モデ
ル」か「信頼モデルか」という択一は、社会統合概念の分岐に相当することになります。
■合意モデルでは、人々が合意した価値や規範の内側でだけ行為が展開する場合、社会統
合されていると見做します。信頼モデルでは、価値合意とは無関係になされる信頼(制度
的予期)が、破られない範囲で行為が展開する場合、社会統合されていると見做します。
■誤解を恐れず縮めて言えば、合意モデルは社会統合を「行為の統合」だと見做しますが、
信頼モデルでは社会統合を「予期の統合」だと見做します。前者では逸脱行為を社会統合
への紊乱だと見做しますが、後者では信頼が脅かされない限りは紊乱だとは見做しません。
■因みに信頼を見ると、単純な社会では、面識圏内での相互行為の履歴が形成する自明性
(慣れ親しみ)が、信頼を与えますが、複雑な社会では、相互行為の履歴を負担免除し且
つ逸脱の可能性を先取りして免疫形成する構造化された予期(制度)が、信頼を与えます。
■その意味で、逸脱行為を脅威と見做す合意モデル的な社会統合観は、単純な社会ないし
共同体的作法を色濃く残す社会に適合的であり、逸脱行為を必ずしも脅威と見做さない信
頼モデル的な社会統合観は、複雑な社会ないし共同体的作法を頼らない社会に適合的です。
【行為と社会システムの関係】
■社会秩序とは行為の配列が示すありそうもなさで、社会統合とはその中でも一定の条件
を満たすありそうもなさを指すのだと言いました。さて、ここで言う「行為」とは何なの
でしょうか。連載第五回で紹介した通り、行為の同一性は、物理的ではなく、意味的です。
■私たちが野球する所に火星人が降り立って来て、私たちを観察します。火星人には個体
の物理的行動や個体同士の行動連鎖が見えます。ある個体から球体が投げ出され、別の個
体が棒状の物体で打ち返し…。でも火星人に私たちが野球をしていることは分かりません。
■火星人が行動の「意味」を知らないからです。火星人が眼前の事象を野球として記述で
きるようになるには時間がかかります。言語習得と似たプロセスを辿り、プレイヤーの視
点に立てるようになり、行為の意味を掴めるようになって、初めて野球の記述に至れます。
■意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、
選び直しを可能にする機能でした。これを踏まえると、行為の意味とは、行為の潜在的な
選択接続の可能性の束によって与えられます。選択接続をコミュニケーションと呼びます。
■例えば打撃行為は、投球行為を先行させうる限りにおいて、かつまた走塁行為を後続さ
せうる限りにおいて打撃なのです。だから社会システムが行為からなるとは、潜在的に可
能な選択接続(コミュニケーション)の総体の、一部が定常的に実現するということです。
■そして、その一部の実現の仕方が確率論的な非蓋然性を示す度合に応じて社会秩序があ
ると称し、かつまた社会秩序が一定の条件を満たす場合を社会統合があると称します。か
くして行為、意味、潜在的な選択接続、社会システムの概念的関係の、復習を終えました。
■以上の概念的関係についての記述は、行為と社会システムとの間の関係に定位したもの
ですが、私たちはまだ、行為と行為でないものとの関係について──例えば行為と体験と
の差異について──十分な知見を得ていません。そこで改めて「行為とは何か」なのです。
【行為と体験の差異をもたらす帰属処理】
■一つのヒントが、連載第五回で述べた、行為に備わる「出来事」的側面と「持続」的側
面です。嘘をつくという行為は、某月某日何時何分の「出来事」ですが、物理的な「出来
事」としては消滅しても、嘘をついたという事実は取り消せずに意味的に「持続」します。
■「持続」するからこそ、「正直に告白」するとか「しらを切る」などの行為への選択接
続の可能性が開かれ、それが開かれているがゆえに「嘘をつく」という行為の意味的同一
性が与えられるのです。物理的な「出来事」性と意味的な「持続」性。これがヒントです。
■「出来事」性を「持続」性へと回収する際に「帰属処理」が行われます。システムに生
じた「出来事」がシステムの選択性へと帰属処理される場合がシステムの「行為」であり、
そうでなく、システムの環境の選択性へと帰属処理される場合がシステムの「体験」です。
■このように定義することで、個人の行為、企業の行為、国家の行為などを包括できます。
すなわち「出来事」としては消滅しても、意味的な帰属処理を通じて、個人の行為、企業
の行為、国家の行為などとして、取り消せない事実として意味的に「持続」するわけです。
■帰属処理は、別様な帰属──システムに帰属せずに環境に帰属するとか別のシステムに
帰属するとか──の潜在的可能性をプールした状態でなされるので、意味的である他あり
ません。行為としての帰属は、絶えず別様の帰属へと開かれた、それ自体が行為なのです。
■法実務の場面を考えれば分かります。男Aの強盗行為と見えたものが、裁判過程を通じ
て、ボスBの脅迫行為によって「強盗させられる」という男Aの体験だったと分かり、罪
を免じられることはよくある話。そこにあるのは、判事Cによる認定(帰属)行為です。
■さらに判事Cの認定行為に見えたものが、後になって別の男Dの脅迫行為によって「認
定させられる」という体験だったと分かることもあり得ます。「分かる」と言いましたが、
分かるという私の体験が、観察者の観点から行為として帰属処理されることもあり得ます。
■つまり何かが行為であるか否かはいつも議論の余地があると同時に、何かが行為である
と言うときには必然的に「帰属処理されるシステム/帰属処理するシステム」のペアが前
提とされています。その際、帰属処理されることは体験で、帰属処理することは行為です。
【「個人の行為」の位置づけと「社会的事実」】
■次に、帰属処理で成立した行為を見ると「帰属処理されたものを更に帰属処理する」と
いう選択接続の結果である場合が見出されます。個人の行為「として」帰属処理されたも
のが部署の行為「として」帰属され、それがさらには会社の行為「として」帰属されます。
■行為の帰属処理が織りなす選択接続の連なりゆえに、市民が会社の責任を問い、会社が
部署の責任を問い、部署が個人の責任を問うという具合に、帰責の選択接続が生じえます。
行為の帰属処理にとって個人は最終単位で、個人が無意識の責任を問うのは許されません。
■かくして行為の帰属処理は、場合によっては入れ子式にもなりうる選択接続のネットワー
クを示しますが、この帰属処理の最終単位としてのみ、「個人の行為」を問題に出来ます。
言い換えれば、「行為と言えば個人の行為だ」などと短絡してはいけないということです。
■こうした行為を支える帰属処理のネットワークを踏まえることで、私たちは初めて、「個
人の行為」の成立条件を問うジョン・L・オースチン流の発話行為論Speech Act Theory
を、社会システム理論との関連で、正確に位置づけ直すことができるようになるのです。
■そのことを前提として、今度は「個人の行為」の成立条件を一般的に問うてみましょう。
「個人の行為」は発話行為であれ非発話行為であれ、「文脈」を参照しつつ「何か」を「そ
れ以上の何か」として意味処理するところに成り立ちます。これは、モノ一般と同じです。
■「文脈」を参照しつつ「何か」を「それ以上の何か」として意味処理することを、社会
学者アルフレッド・シュッツは「類型化」と呼びます。古くはM・ハイデガーが、モノ一
般が「それ以上の何か」として現象する様を「として構造」と呼んで、問題にしています。
■「それ以上の何か」以前を「何か/文脈」に分けるのは単なる便宜で、それ自体が類型
化に過ぎません。ですが、こうした便宜によって隣接学説との接続を図ることができます。
オースチンの発話行為論、チョムスキーの生成文法論、シュッツの有意性構造論などです。
■発話行為論は、「何か」として「発語」を取り出し、それが「状況=文脈」次第で異な
る行為(発話)を帰結する様を定式化しました。それに従えば、チョムスキーの生成文法
論は、「文脈」とは無関連な「発語」のシンタックス(統語規則)を定式化したものです。
■文法的であったりなかったりする「発語」が、「状況=文脈」次第で異なる「発話」と
なるというのは、「馬鹿だな、お前は」というセリフが、状況次第で「侮辱」にも「愛情
表現」にもなるという例で理解できます。「発話」としての値を「遂行性」と言います。
■発話には「カラスは黒い」みたいに真理値が問題になる事実確認的なものと、「約束す
るよ」みたいに真理値を問題に出来ない遂行的なものがあります。後者は(実は前者も)
社会内に約束行為という事実(前者なら記述行為という事実)を作り出す機能を持ちます。
■彼は約束した、彼女は記述した、という事実は取り消せません。発語という「出来事」
は消滅しても、発話という事実は「持続」します。だから約束には遵守/違背という行為
の接続可能性が開かれ、記述には訂正/再確認という行為の接続可能性が開かれています。
■因みに「出来事」の生成消滅とは別に、社会の中で取り消せない事実として意味的に「持
続」するものをデュルケームは「社会的事実」と呼びます。社会システム理論で言う行為
は社会的事実であり、発話行為論は、発話の社会的事実性を問題にしたのだと言えます。
■こうした構造は非発話的な身体行為にも見出されます。物理的には同一の身体的接触が、
「状況=文脈」次第では医療行為にも痴漢行為にもなり得る、つまり全く異なる社会的事
実を帰結し得ます。このことは刑法の「猥褻物実体主義」を批判する観点からも重要です。
■発話行為が発語の文法性という条件を要するように、非発話的な身体行為も身体挙動の
形式性という条件を要します。音楽を演奏するにしても赤子をあやすにしても、そうです。
かかる形式性を実現するコストを修練や道具によって軽減することを「技術」と呼びます。
■さて今しがた、同一の身体的接触が「文脈」次第で医療行為にも猥褻行為にもなり得る、
と言いました。発語や身体挙動の形式性を低コストで制御する手段が「技術」だと言いま
したが、それでは「文脈」の制御可能性は、いったいどれほど開かれているのでしょうか。
■実は文脈もまた社会的事実──取り消せない意味的「持続」──としての側面を持ちま
す(正確にはそれを文脈と呼びます)。社会的事実としての文脈の中で特に問題になるの
が、猥褻の例に出て来る「医者だ、教師だ」という役割です。次回「役割とは何か」です。
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