【連載・社会学入門(2004)】十四回:役割とは何か?

MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司

■連載の第一四回です。前回の「行為とは何か」を復習します。第一に、野球を知らない火星人が眼前の野球を記述できないことから分かるように、行為の同一性──行為がその行為であること──は、物理的なものではなく、意味的なものです。

■第二に、行為の意味は、行為の潜在的な選択接続の可能性──先行しうる行為の束と後続しうる行為の束──によって与えられます。ただし、意味とは、刺激を反応に短絡せず、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールして選び直しを可能にする機能です。

■第三に、行為には出来事性と持続性の二重の相があります。「嘘をつく」行為が時点的出来事でも、嘘をついたという事実は取り消せずに社会的に持続します。だからこそ後続して「嘘を認める」「シラを切る」などの行為が選択接続の可能性が開かれるのです。

■第四に、出来事性を持続性へと回収する際に帰属処理が行なわれますが、システムに生じた出来事が、システムの選択性へと帰属される場合がシステムの「行為」であり、環境の選択性へと帰属される場合がシステムの「体験」です。

■この定義では、問題のシステム(定常性を維持する当体)が個人でも企業でも国家でもありうるので、個人の行為や体験のみならず、企業や国家の行為や体験をも包括できます。これは行為や体験についての日常的語法とマッチします。

■第五に、法実務に見るように、当初は宮台へと帰属された個人行為が、都立大の組織行為として問題化(再帰属化)されたり、それが更に東京都の組織行為として問題化(再帰属化)されることがあり得ます。

■これと裏腹に、行為責任を問われた東京都が、都立大という部署の組織行為として問題化(再帰属化)して懲罰し(予算減額等)、それを都立大が宮台の個人行為として問題化(再帰属化)して懲罰する(懲戒処分等)ことがあり得ます。

■第六に、こうした内部責任を問う再帰属化の連なり(=選択接続)の最終単位が個人行為になります。責任を問われた個人が、個人の内部にある何か(無意識等)の責任を問うといったコミュニケーションは許されていません。

■第七に、個人行為は「一定の形式を帯びた発語や身体挙動が、文脈次第で異なる社会的事実──意味的な持続──をもたらす」という形で現実化します。この社会的事実としての同一性を「遂行性」と言います。冒頭の「行為の意味的同一性」に相当します。

■個人行為が、個人のもつ関係性を文脈として様々な形で再帰属化されることで、企業や国家などの組織行為が成立します。さて、第六に述べた、個人行為の意味的同一性は文脈次第だという際の「文脈」とは具体的に何なのか──。前回はここまで話しました。

■追補すると、個人行為の「行為者」は、物理的水準、遂行的水準、帰責的(反省的)水準の、三水準で考えられます。物理的行為者とは、発語や身体挙動を帰属される自己推進的基体で、遂行的行為者とは、社会的事実として選択性を帰属される主体です。

■イタコの口寄せが典型ですが、物理的発語(はつご)者がイタコでも、遂行的発話(はつわ)者が「亡き父」だという具合に、両者は必ずしも重なりません。更に、遂行的発話者が有する関係性次第では、反省的認識における有責性の帰属先も別になりえます。

■つまり当初の遂行的行為者と有責的行為者がズレることがあり得ます。脅迫して犯罪を行わせた者のように、別の個人が有責的行為者になる場合もあれば、組織成員の公式業務のように、当初の遂行的行為者が属する組織が有責的行為者になる場合もあり得ます。

【「として構造」のヒト版としての役割の類型論】
■さて、個人行為には、出来事としての生成消滅とは別に、取り消せない意味的持続の相(遂行性)がありました。つまり、社会的事実としての相です。同じように、個人行為の意味的持続の同一性を左右する文脈のほうにも、社会的事実としての相があります。

■なぜなら、行為の文脈も、遡れば、取り消せない意味的持続としての行為によって形成されるものだからです。例えば「売約済みの建物」なる文脈は売買契約という行為の帰結です。「敗戦後の社会」なる文脈は講和条約の調印と批准という行為の帰結です。

■この「文脈の社会的事実性」を構成する諸要素の内で、最も重大なものが「役割」──なかんづく「制度役割」──です。遂行的行為者の役割次第で、行為の意味すなわちそれによってもたらされる社会的事実が違って来ます。今回は「役割とは何か」です。

■「役割」とは、ヒトに与えられるカテゴリーです。例えば私は、男として、宮台真司として、都立大教員として、皆さんの前に現れます。この「◯◯として」の◯◯が役割です。前回紹介した、ハイデガー(1889-1976)の「として構造」の、モノ版ならぬヒト版です。

■従ってモノとヒトの差異が役割の前提になりますが、何ものかがモノとして現れるかヒトとして現れるかの境界は実は自明ではありません。どこから先を死(モノ)とするかを巡る脳死判論議や、どこから先を生(ヒト)とするかを巡る中絶論議が象徴的です。

■ここでは微妙な線引きには深入りせず、拙著『サイファ』に則って次のように考えます。心を持つ存在がヒトです。心を持つとは、(1)内側から〈世界〉を分節していると想像され、かつ、(2)その分節がエンパシー(感情移入・同感)可能だと信じられることです。

■エンパシーとは、他者による〈世界〉の分節──他者の〈世界〉体験──を自分の内部に再現することです。社会学者G・H・ミード(1863-1931)は、他者からの〈世界〉の見えを取得することを役割取得と呼びますが、これがエンパシーに当たります。

■ヒトに与えられるカテゴリーが役割ですが、中でも重要なのが「個人役割」と「制度役割」です。個人役割とは、固有名で呼ばれうるその人の「その人」性のことです。制度役割とは、医者や都立大教員などの資格該当が制度的に決まったカテゴリーのことです。

■どちらも境界に曖昧な所があります。個人役割を見ると、哲学で心身問題として論じられるとおり、何を失うとその人の「その人」性が失われるのか微妙です。心の同一性と言いたい所ですが、記憶喪失を患った宮台を「宮台でない」と言い切るのも困難です。

■制度役割について見ると、宮台が都立大教員だと証明するのは原理的に不可能です。都立大職員に訊けば良さそうですが、彼らが都立大職員であることを証明せねばならず、無限背進します。結局は、誰もがそう思うだろうとの制度的予期が資格該当を担保します。

■次に重要なのは「行為役割」と「体験役割」です。行為役割とは、殴る人、見る人、意図する人などに相当します。体験役割とは、殴られる人、見える人、悲しむ人などに相当します。それぞれ行為ならびに体験を割り振られた当体としてのカテゴリーです。

■個人役割・制度役割・行為役割・体験役割に属さない残りが「属性役割」です。背が高い人、明るい人、疑わしい人等々。これは5つの役割全てが「現在◯◯である人」「過去◯◯だった人」「将来◯◯になる人」という時間価を帯び得ます。

■理論的便宜として、現在の時間価をもつ役割のみを以て、個人役割・制度役割・行為役割・体験役割・属性役割とします。過去や未来の時間価をもつ諸役割は一括して、現在価をもつ属性役割に繰り入れます。理論的便宜ですので、あまり気にする必要はありません。

【制度役割の機能とシステム信頼】
■ラルフ・リントン(1893-1953)以来、伝統的役割理論は制度役割にだけ注目して来ました。役割取得の概念であらゆる心的反応を包括しようとしたミード(前述)は飽くまで傍流です。制度役割が注目されてきた背景には、実は制度役割の独特な機能があります。

■制度役割の機能とは「履歴に依存しない信頼」を呼び出す負担免除です。私たちは、相手がマクドナルド店員だ、あるいは警官だという制度役割だけで、相手が何者なのかをコミュニケーションの履歴を通じて確かめなくても全面的に信頼します。

■制度役割が、コミュニケーションの履歴を通じて形成した「人格的信頼」を免除するのは、ルーマンの言葉で言えば、代わりに「システム信頼」を当てにすることを可能にするからです。制度役割の背後にシステムの働きが想定できるからだということです。

■連載に即して言えば、制度の働きを想定できることです。制度の機能には二つありました。第一は、私の反応についての相手の予期を操縦する必要を負担免除する機能。第二は、違背に際して社会的反応を動員できるとの予期によってパニックを軽減する免疫形成機能。

■制度役割の裏には制度があって、制度的予期が貼り付いています。任意の第三者の規範的予期・に対する認知的予期です。制度役割を帯びる相手も制度を知っていて制度的予期をなし得る、と私は予期します。その結果、負担免除と免役形成の機能が得られるのです。

■具体的には、マクドナルドの店員という制度役割を帯びた者は、それを支える制度に違背すれば他者たちからどんな反応があるのかを、個別の他者とのコミュニケーション抜きで一般的に予期できます。それを知る私たちは、彼が然るべき行動をとると期待できます。

【血縁原理の縮退と、制度役割と個人役割の分化】
■ちなみに制度役割がコミュニケーションの履歴に依存しないシステム信頼と結びつくのとは対照的に、個人役割はコミュニケーションの履歴に依存する人格的信頼と結びつきます。制度役割と個人役割の分化、システム信頼と人格的信頼の分化は、進化的な達成です。

■制度役割の出発点は原初的社会における血縁的続柄にあると考えられます。レヴィストロースが明らかにしたように原初的社会の婚姻規則は血縁的続柄によって詳細に指定されています。血縁的続柄は一つの形式で、複数の個人役割が入れ替え可能になります。

■血縁的続柄を基礎として族長やシャーマンや裁定者などの特別な制度役割が割り当てられます。しかし部族段階の原初的社会は面識圏内で閉じているがゆえに、見知らぬ者を制度役割(を支える制度)ゆえに信頼するというシステム信頼は、未だ分出していません。

■同じく原初的社会では、個人役割を帯びる者が、誰もが知る血縁的続柄という制度役割と貼り付いた形でしか存在できません。だから、個人役割を帯びる者をコミュニケーションの履歴のみを手掛かりに信頼するという人格的信頼も、未だ分出していません。

■血縁原理の支配ゆえに個人役割と制度役割とが未分化な原初的社会では、人格的信頼とシステム信頼も未分化のまま、潜在的可能性は使い尽くされていません。血縁原理が極限まで縮退する近代社会になって、初めて潜在的可能性が開花します。

■近代社会では見知らぬ他人との相互行為の頻度が飛躍的に高まりますが、制度役割こそが、見知らぬ他人との相互行為に依存した複雑なシステム構築を可能にします。そのことが、匿名的相互行為の増大を疎外として扱う大衆社会論や管理社会論を生み出しました。

■しかし実際は匿名圏と親密圏の創出が並行します。両者は血縁原理が十分縮退する19世紀以降初めて潜在性を開花させます。見知らぬ者を制度役割ゆえに信頼可能な社会で初めて、コミュニケーションの履歴のみで個人役割を帯びた者を信頼できるようになるのです。

MIYADAI.comより転載