【連載・社会学入門(2004)】十五回:人格システムとは何か?
MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司
■社会学の基礎概念を紹介する連載の第一五回です。前回は「役割とは何か」を説明しました。「役割」とはヒトに付与されるカテゴリーのことです。例えば私は、男として、宮台真司として、都立大教員として認識されます。因みにヒトとは心を持つ存在のことです。
■ヒトとは(1)内側から世界を分節していると想像され、(2)その分節がエンパシー可能だと信じられる存在です。前回を補えば、コミュニケーションの相手となり得る存在のことです。原初的社会では万物がコミュニケーション可能ですから、ヒト概念は拡がり得ます。
■役割の中で最も重要なのが「個人役割」と「制度役割」です。前者は、固有名で呼ばれうる「その人」性のことで、後者は、医者や都立大教員など資格該当が制度的に決まったカテゴリーです。「制度的」とは、任意の第三者がそう認定すると、予期できることです。
■この他に行為ならびに体験を割り振られた当体のカテゴリーとして「行為役割」と「体験役割」があります。前者は、殴る人、見る人、意図する人など。後者は、殴られる人、見られる人、悲しむ人など。以上4つのどれにも属さないものを「属性役割」と言います。
■制度役割の機能は、履歴に依存しない信頼を呼び出すこと。私たちは、相手がマクドナルド店員だというだけで、コミュニケーション履歴とは無関係に信頼を寄せます。別言すると、個人役割と結合した人格的信頼を、制度役割と結合したシステム信頼が免除します。
■制度の機能は、任意の第三者の社会的反応(についての相手の知識)を期待できることで、(1)私の個人的反応についての相手の予期を操縦する必要を「負担免除」し、(2)相手のありうる違背に対し「免疫形成」することです。制度役割は制度の機能と表裏一体です。
■制度役割の出発点は原初的社会における血縁的続柄です。しかし血縁原理(血縁的続柄による資源配分原理)の支配ゆえに個人役割と制度役割が未分化な原初的社会では、人格的信頼もシステム信頼も未分化なままで、潜在的可能性をいまだ開花させてはいません。
■血縁原理が充分に縮退した近代社会になって初めて、見知らぬ者を制度役割ゆえに信頼する匿名圏(システム信頼の領域)と、コミュニケーション履歴のみで個人役割を帯びた者を信頼する親密圏(人格的信頼の領域)が同時に拡大し、社会の複雑化を可能にします。
■前回を補えば、行為に対する認知的予期も規範的予期も、「役割xを帯びた者は、状況yにおいて、行為zを為す(だろう/べきだ)」というf(x,y)=z的な函数形式を取ります。「警官は職務中は禁煙すべし」などが典型ですが、xには制度役割以外の役割も入り得ます。
【社会システム・人格システム・心理システム】
■さて、制度役割がシステム信頼に結びついて匿名圏を、個人役割が人格的信頼に結びついて親密圏を、形成すると述べました。システム信頼とは社会システムの作動への信頼で、人格的信頼とは人格システムの作動への信頼ですが、人格(人格システム)とは何なのか。
■人格システムの概念は、社会システムの概念と同じく、T・パーソンズが提起しました。社会の要素は人格的な個人だと考えるのが従来の通念だったのを、彼は社会システムも人格システムも同じく行為を要素とするとした上、準拠枠の違いが両者を分けるとしました。
■ルーマンも同じです。観察可能なのは社会でも人格でもなく行為ですが、一群の可能的行為を、コミュニケーション的纏まりに準拠して内外差異を設定すると社会システム、エンパセティカルな心理的纏まりに準拠して内外差異を設定すると人格システムになります。
■例を挙げると、私たちが日本社会と言うとき、可能な行為(コミュニケーション)総体を、日本社会に属し得るものと属し得ないものとに差異化します。私たちが宮台真司と言うときも、可能な行為総体を、宮台真司に属し得るものと属し得ないものとに差異化します。
■この差異化を、認識する私たちが勝手になすものと言うより、日本社会自身が日本社会に属し得る行為とそうでない行為を境界設定し、宮台真司自身が宮台真司に属し得る行為とそうでない行為を境界設定するが故のものと見做すとき、システム概念が適用されます。
■宮台という人格(パーソナリティないしキャラクター)が宮台に属しうる行為の総体だとして、行為がそこに属しうるか否かを(他者や自身が)境界設定する場合にエンパセティカル(同感的)に想定されるのが、「心」、すなわち、心理システムという実体です。
■社会学者の中にも人格システムと心理システムを混同する向きが多いのですが、人格システムは社会システムと同じく、行為という観察可能な要素からなる可能的な纏まりですが、心理システムつまり「心」には観察可能な要素が皆無で、完全に想像的なものです。
■内側からそこに属するか否かを境界設定する働きを示すのがシステムです。私たちが日本社会と言うときにそういう働きが想定されているので、社会システム概念が適用されます。宮台真司と言うときも同じ働きが想定されるので、人格システム概念が適用されます。
■その意味で人格概念(ないし人格システム概念の適用対象の存在)は普遍的ですが、しかし「心」の概念(ないし心理システム概念の適用対象の存在)は普遍的ではありません。コミュニケーションの中で「心」なるものが一切主題化されない社会があり得るわけです。
■例えば臨床心理学や精神医学が取り扱う「心」という概念はさして自明ではありません。部族共同体からなる原初的社会では、一つのものを誰もが同じように体験し、同じように体験するがゆえに同じように行為する、という慣れ親しみ的な信頼(第11回)があります。
■そうした社会では、たまに予想外の振舞いをする輩が現れると、狐が憑いた・神が降りた等と理解され、儀式的な共同行為を行って、俗なる時空から聖なる時空へと切り離す形で無害化します。そうした社会には人それぞれに「心」があるという観念はあり得ません。
■ところが社会が複雑になると、コミュニケーションの相手が予想外の振舞いをしがちになります。期待外れの頻度が高まると、一方で「宗教からの法の分出」が起こり(「法とは何か」で詳述)、他方で「人それぞれに違った心がある」という帰属処理が始まります。
■かくして「心」という概念が生まれます。社会の複雑化がさらに進むと、コミュニケーションは一層不透明になって期待外れの頻度が上昇し、他人ばかりか自分の行動も自分自身の期待から外れがちになります。こうした段階で歴史的に誕生するのが「個人性」です。
【個人性・個体性・個人主義】
■個人性とは「各人には入替え不能な内面がある」「各人には固有に一貫した心がある」という意味論です。とりわけプラトン化されたキリスト教の伝統が、救済を、善行ないし戒律遵守から切り離して、信仰内容に結びつけたことで、一挙に個人性が一般化しました。
■単なる心に比べて、個人性には更なる賦課が重なっています。心の概念は、期待外れの帰属先に過ぎません。すなわち「与えられた状況で各人が異なる心を持っていたので振舞いがバラバラになった」といった了解であって、シチュエイショナル(状況主義的)です。
■ところが、個人性が一般化すると、与えられた状況云々とは無関連に「状況貫通的な固有性」が想像されるようになり、それゆえに「他者理解の不可能性」という観念が一般化して、「他者理解の不可能性」が「状況貫通的な固有性」から説明されるようになります。
■私たちの近代社会で「心」というとき既にこうした個人性が前提とされています。私たちは「心があるから予想外の振舞いをする」との了解に留まらず、「心の入替え不可能性」や「心の不透明性」を前提にしています。こうした段階で精神医学や心理学が生まれます。
■こうした個人性は、個体性と同じではありません。前々回述べたように、個人行為には物理的レベルでの自己推進的な有機体が見つかります。このレベルにおいて、ある有機体の死は別の有機体の死ではないという意味で、物理的行為者の個体性は普遍的なものです。
■これに対し、個人性は「心の深淵など他の誰にも分からない」といった特殊な観念です。近代社会では、ロマンチック・ラブの営みにおいてこうした困難を逆手にとった奇跡が一般的に愛でられることもあって、個人性が一般的だと錯覚されますが、歴史的生成物です。
■また、こうした個人性individualityの一般化は、個人主義individualismの前提になり得ても、個人主義の一般化と同じではありません。個人主義は全ての人格を自己決定=自己責任原則を担うべき主体だと見做す価値観です。すなわち後者には更なる賦課があります。
■個人主義は日常の話題になり得ても、個人主義に歴史的前提を与えた個人性は話題になりません。社会学ではこれが大きな桎梏になります。なぜなら近代社会(機能的に分化した社会)は、個人主義(価値観)ではなく個人性(了解傾向)を必須条件とするからです。
【社会学と精神医学の協調体制の必要】
■社会学も心理学も19世紀以降の歴史しかなく、コントの人類教やメスマーの動物磁気学を持ち出すまでもなく、出自には宗教や呪術と混じり合ったいかがわしさがあります。しかし両者は対称ではありません。社会学には心理学そのものが対象として表れるからです。
■社会学の発想では社会学も心理学も社会のあり方に徹底的に拘束されています。例えば、かつては狐憑きや神降ろしの媒体として珍重されていた心的喪失者が、近代初期には犯罪者や涜神者と同様なノイズとして隔離され、19世紀以降は治療対象として見出されます。
■この段階で生まれるのが心理学。心理学の目標は、目に見えない心を記述することです。特に実践目標(臨床)は、心に問題を抱えるとされる人間を、問題を抱えないとされる状態にすることです。本人や周囲が問題ないと考える状態に導くことを「治す」と言います。
■社会学の目標は、不透明な動きを示す社会を記述することで、特に実践目標(政策)は、問題を抱えるとされる人たちを生み出す社会的メカニズムを描き出し、かつ、制度や文化をどう変えればこうした社会的メカニズムを解除できるかという処方箋を考えることです。
■心理学は、現行の制度や文化を「前提にする」学問です。社会学は、現行の制度や文化を「疑う」学問です。社会学によれば、「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標です。
■ゆえに「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学です。
■例えば、家族の中に居場所が見つからない人に、なぜそうなるのか、どうすれば見つかるかを心理学者は語ります。でも社会学者から言えば、家族の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族を営むべきなのかどうかさえ疑わしいのです。
■同じく、精神医学(広義の心理学の一部に数えます)は最近“病気(神経症や精神病)ではないが変な人”を「人格障害」と呼び、矯正教育の対象とするようになりました。しかし社会学は、治すべきが人の心なのか社会の在り方なのかは、自明ではないと考えます。
■社会学の立場では「人格障害」は郊外化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常性の証です。これを矯正教育の対象とすることで、合理的適応として「人格障害」を生み出すような社会そのものの矯正が、埒外に置かれる可能性を社会学者は危惧します。
■前述のように、社会システム理論から見ると、心理学が対象とする心理システムなるものは、人格システムに比しても極めて特殊な社会形象です。心理学とりわけ精神医学には、社会学者の政策的観点と協調体制を取りつつ臨床的観点を採っていただく必要があります。
(この問題については、精神科医の高岡健氏との対談「小六殺人とネット社会」(『創』二〇〇四年八月号)で詳しく論じています)
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