【連載・社会学入門(2004)】十六回:自由とは何か?
MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司
■連載の第一六回です。前回は「人格システム」概念を紹介しました。復習しましょう。通念では、社会の構成要素は個人。ところが、社会システム理論では、社会システムの構成要素は行為です。行為からなるシステム(行為システム)に、社会システムと人格システムとを区別します。
■行為の纏まりが、自らに属する行為と属さない行為を、自ら境界設定する働きを示すと見做される場合、行為システムと呼ばれます。中でも、複数の個人主体に跨る選択連鎖(選択接続=コミュニケーション)に準拠したときに見出される行為システムが、社会システムです。
■他方、単一の個人主体が展開する選択連鎖の纏まりに準拠したときに見出される行為システムが、人格システムです。社会システムも人格システムも、要素たる行為が、物理的同一性でなく意味的同一性により定義されるので、間主観的な了解を前提とした概念です。
■「日本社会」に属し得る行為と属し得ない行為を「日本社会」自身が境界設定すると見做される場合、社会システム概念が適用され、「宮台真司」に属しうる行為と属し得ない行為を「宮台真司」自身が境界設定すると見做される場合、人格システム概念が、適用されるのです。
■噛み砕くと「日本社会」には「日本社会」なりの“行動傾向”があり、「宮台真司」には「宮台真司」なりの“行動傾向”があるとされています。“行動傾向”の由来は、反省的には行為同士を結合する内的メカニズムであり得ますが、取り敢えずはブラックボックスです。
■人格システムと混同されがちなものに、心理システムの概念があります。人格システムを同定する(そこにあると見做す)に際し、行為がそこに属するか否かを判定するにために用いられ得るエンパセティカル(同感的)な帰属処理の宛先が、心理システムなのです。
■人格システムには観察可能な要素(行為)がありますが、心理システムには観察可能な要素がありません。表象にせよ感情にせよ、心理システムの要素は全てエンパセティカルな想像物です。故に、人格システムと違い、心理システムは普遍的な概念ではありません。
■社会が複雑になって期待外れが頻繁になるに伴い、各人毎に違った心があるという帰属処理の宛先として、心理システム概念が分出します。更に社会が複雑になれば、心理システムに対して、不透明な固有性(入替え不能性)としての個人性individualityが想像され始めます。
■心の不透明性としての個人性を学的対象とする「心理学」は、政治的次元(集合的動員機能)にも経済的次元(資源配分機能)にも還元できないコミュニケーションの不透明性としての社会性を学的対象とする「社会学」と、奇しくも同じ19世紀に誕生したのでした。
■心理学の目標は、心理システムを記述することによって、心に問題を抱える状態を、問題を抱えない状態へと導く処方箋を見出すこと。社会学の目標は、社会システムを記述することによって、問題を抱える制度や文化を生み出す社会的メカニズムを解除する処方箋を見出すこと。
■両者は対称に見えて実はそうではありません。社会学から見ると心理学の処方箋は、制度や文化が抱える問題を等閑視したまま、妥当な適応の方策を探るものに見えます。例えば心理学は家族の病を解決しようとしますが、社会学は家族を営むべきなのかどうか疑うのです。
【前回の敷延:「再帰性の思考」と社会学】
■敷延すると、社会学の対象に心理学(を支える諸前提)が出現するのに対し、心理学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することは、論理的にあり得ないということです。ところが社会学の対象に社会学(を支える諸前提)が出現することが論理的にあり得ます。
■連載第一回と第二回を思い出して下さい。社会とは我々のコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体で、それを明るみにすることが社会学の営みでした。我々のコミュニケーションには社会学も当然含まれます。だから社会学は反省的な営みになります。
■社会学の伝統は「前提を遡る思考」にあります。ところが「前提を遡る思考」にも19世紀的なものと20世紀的なものを区別できます。19世紀的なものを「潜在性の思考」と呼びます。フロイトの「無意識」概念やマルクスの「下部構造」概念に、典型を見いだせます。
■要は「見えるものは、見えないものによって規定されている」とする思考です。この思考は、しかし、この思考自身が見えないものによって規定されている可能性を、等閑視します。例えば虚偽意識(イデオロギー)論は、虚偽意識論自体が虚偽意識である可能性を必死で隠蔽します。
■これを批判するところに生まれるのが、20世紀的な「再帰性の思考」です。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念やルーマンの「社会システム」概念が典型ですが、例えば言語ゲーム論自体が言語ゲームの一つだという自己言及的循環に、意識的に言及します。
■ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについての沈黙」という言明を使って明示的に言及しますが、ルーマンは「脱トートロジー化」の概念で、絶えざる自己言及が次なるコミュニケーションへの接続可能性を開くとして、自己言及的循環をむしろ積極的に評価します。
■自己言及的循環は全てを再帰的reflexiveにします。再帰性概念のルーツはマンハイムが半世紀前に提示した「再帰的な伝統主義」(一般に「反省された伝統主義」と訳す)です。彼は、伝統主義は、伝統が空洞化したからこそ生じる近代的な選択の営みだと喝破します。
■伝統が存在するなら、常に既に全行為に貼り付いている筈。共同性が存在するなら、常に既に全行為に貼り付いている筈。伝統や共同性を殊更に言挙げして、ソレを守れと言うとき、ソレを守るなと言う場合と同じ程度には、人は伝統や共同性から見放されています。
■伝統も共同性も語義に従えば本来は選択できません。選択の対象にした途端これらはベタではなくネタになります。すなわち「コミュニケーションを浸す暗黙の前提」でなく「コミュニケーションの主題」になり、その結果、潜在性ゆえにあり得た諸機能を喪失します。
■先に社会学の営みは暗黙の前提の可視化だと言いました。つまり社会学の目標は全てを再帰性の地平に横並びにして選択可能(護持可能・放棄可能)にすること。むろん論理的には不可能なので、可視化の営みの不可視の尻尾・の可視化の営み…と時間的に続きます。
■近代の傾き自体を体現した、まさに近代的な営みです。前述の通り、再帰化とは「潜在性の空洞化を選択で埋め合わせできるフリをすること」。他方、再帰化の営みこそが潜在性を空洞化する(面もある)。だから再帰性は、近代の本質をなすマッチポンプなのです。
■再帰化によって空洞化した潜在性を選択によって埋め合わせできるフリをする再帰化(によって空洞化した潜在性を…)は、不可視の尻尾を残し続けるので、可視化に向けた再帰的言及の宛先を永久に失いません。こうしたマッチポンプを脱トートロジー化が支えるのです。
【「脱トートロジー化」と「脱呪術化」】
■近代の枢軸をなす、「終わりなき再帰性(自己言及)をもたらす脱トートロジー化(尻尾を追いかける永久運動)」。これはすなわち、ウェーバーが「脱呪術化」という概念によって指示した事象を、システム理論の概念を用いてパラフレーズしたものに相当します。
■終わりなき再帰性は、私たちの選択自由を一見すると拡げます。でも私たちを構造的マッチポンプの中に巻き込んでもいます。「自由という不自由」、ひいては「脱呪術化という呪術」。近代社会は果たして、私たちを自由にし、あるいは、脱呪術化したのでしょうか。
■あるいは、そもそも私たちはなぜ、それほどまでして「前提を遡ろう」とする(ことで終わりなき再帰性の渦に巻き込まれてしまう)のでしょうか。こうした問題は、社会システム理論家や、批判理論の後継者たちの間で、今日最もホットな論議の的になっています。
■ただ、連載第十六回の段階でこうしたホットな論議を深く理解し、結論を得るには、道具立てが少なすぎます。宗教とは何か、法とは何か、政治とは何か、経済とは何か、性愛とは何か、科学とは何か、教育とは何か…を徹底理解することが必要条件になる所以です。
■ここでは「究極の問題」については予告するに留めるとして、さて、連載を振り返ると、第一回から第五回までを第一部として、社会システム概念自体の理解に必要な説明をし、第六回以降の第二部では、社会システム理論が分析用具とする個別概念を説明してきました。
■次回からの第三部では、分化した各下位システムを記述します。但し組織とは何か、メディアとは何かといった本来なら第二部で扱うべき問題を積み残していますが、第三部で随時解説します。今回は第二部の最後として、「究極の問題」に直結する「自由とは何か」に触れます。
■連載第七回で「自由である」とは一般に、選択前提が与えられているが故に「滞りなく選択」できる状態だとし、具体的には(1)選択領域(選択肢群)が与えられ、及び/或いは(2)選択チャンスが与えられ、及び/或いは(3)選択能力が与えられた状態を指す、と言いました。
■未開社会が文明の利器を知らないのは(1)の水準の不自由ですが、当事者はそもそも選択肢を知らないので不自由感はありません。選択肢を知っているのに貧乏だったり禁じられたりして選べないのは(2)の水準の不自由ですが、当事者には明白な不自由感があります。
■選択肢を知っているし、選択を妨げる障壁はないが、選択肢の良し悪しの計算力がなかったり、選択肢を評価する物差しがないが故にどれを選ぶべきなのか判断できない場合が、(3)の水準での不自由です。この場合、当事者には、不全感という意味での不自由感があり得ます。
【自由/秩序、因果帰属/選択帰属】
■自由についての議論をここで打ちきる訳にいきません。先の「滞りない選択」を、「自己決定」と言い換えられますが、たとえ前述の選択前提が与えられても、三つの理由から「自己決定」などあり得ないとする主張が、左翼論壇誌や保守論壇誌で罷り通るからです。
■自由な自己決定があり得ないとされる第一の理由は、自己決定は、問題ある既存秩序を補完することで、理想秩序が与える筈の選択前提(選択領域/選択チャンス/選択能力)から人を遠ざけるから。自己決定的な援助交際を批判するフェミニストの議論が典型です。
■いわく、少女が、妻や娘を家父長の所有物と見做す家父長制から最大利得を引き出すべく自己決定で売春するのは責められないが、その振舞いのせいで家父長制が温存されると。確かに「プロの女だけ売れ」という議論が象徴するように、売買春は家父長制と結合していました。
■しかし少女援交は、旧来の売春と違い、家父長制が想定する妻や娘のイメージを裏切ります。だからこそ、ソープ接待の買春オヤジが「援交OKだと?宮台、許さん!」と噴き上がる訳です。自己決定は秩序を補完し得ますが、それは必然的ではなく、逆もあり得るということです。
■自由な自己決定があり得ないとされる第二の理由は、自由(自己決定)は秩序(共同性)を脅かし、自由の前提を壊すから。この思考図式はホッブズに遡りますが、彼に見られる「秩序のためには自由の断念が必要」とする観点を「自由と秩序のゼロサム理論」と言います。
■しかし私たちが直面するのは、脳死を巡る「死の自己決定」の現場を見れば分かるように、死を共同的に生きる親族が、本人を思いやって告知しないことで、告知さえあれば自己決定で選べる筈の「共同的に生きられた死」から、本人が遠ざけられてしまうという逆説です。
■ことほどさように近代社会では、人は自己決定で「伝統を尊重せよ」「共同体が大切だ」と他人に呼び掛け、呼び掛けられた人は自己決定で「伝統的な生」「共同体的な生」を生き得るのです。自由と秩序のゼロサム理論は、近代の再帰性を踏まえない実に幼稚な議論です。
■自由な自己決定があり得ないとされる第三の理由は、自由に自己を決定できる自己など、存在論的にあり得ないから。ある精神科医は、AC(アダルトチルドレン)系の援交少女を例に挙げ、「個人の自由にならない心理的前提に縛られる以上、自由な自己決定はあり得ない」と言い切ります。
■また、ある社会学者は、成育環境が育む援交少女の感受性を例に挙げ、「個人の自由にならない社会的前提に縛られる以上、自由な自己決定はあり得ない」と言い切ります。彼らはいずれも、自由ないし自己決定を自己原因性として把握している点が共通しています。
■これは、因果帰属と選択帰属との混同です。両者を区別したのが、カントです。世界が因果的に決定されているのなら(カント自身が信じるニュートン的世界観)自由意思などあり得ません。彼は、自由とは、因果的な自己原因性でなく、意思通り行為できることを指すのだと考えました。
■論理(純粋理性)と倫理(実践理性)を分離したのです。人倫の世界では、意思が妨げられていない以上、別の行為を意思できた筈だと了解されます。その限りで、当事者に自由意思があった──殴らない選択も意思できた──と見做され、責任が帰属される訳です。
■実際に刑事裁判では社会的に形成された無意識のせいにして被告を免責することはないし、過失不作為の法理(被告に事故を回避する自由がなかったと断定できぬ云々)による有責性追求に見るように、選択帰属は、因果帰属とは別の高度にシンボリックな操作です。
■行為とは、システムに生じた出来事が、環境ではなくシステムの選択性に帰属される場合だと言いました(第一三回)。選択帰属とはこの帰属操作のことです。すなわち因果帰属上の可能性とは別の水準で「システムには別様の選択が可能だった筈」と見做すのです。
■私たちのコミュニケーションは、相手がどう出るか分からない偶発性に晒されています。全知全能なら心理的社会的な潜在性を全て把握し、因果帰属で偶発性を切り縮められるでしょう。それが不可能だから因果帰属をスキップして目標や課題を焦点化する。それが選択帰属です。
■結論。第一に、システム理論的な行為概念を踏まえた上で、自由ないし自己決定が因果帰属でなく選択帰属上の概念であることを弁えるべきです。その上で第二に、自由の前提たる秩序の確保をも自由な選択の対象と化する近代の再帰性に、十分敏感であるべきです。
MIYADAI.comより転載