【連載・社会学入門(2004)】十八回:宗教システムとは何か?(上)

MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司

■連載の第一八回です。前回は下位システムとは何かを説明しました。補足しつつ復習します。下位システムsub systemは上位システムmain system に対比されます。因みに上位システムは連載で単にシステムと呼んできたもので、下位システムとの対比で用います。

■一般にシステムは数多の機能的達成をせずには存続できません。社会システムで言えば、どんな社会システムも、経済機能(資源配分機能)、政治機能(集合的決定機能)、法機能(紛争処理機能)、宗教機能(根源的偶発性処理機能)等を調達せずに存続できません。

■システムが、自らの存続に必要な機能的達成を、システムの中に存在するシステムに委ねたものが下位システムです。下位システムは単数でもあり得ますが、システムが、数多の機能的必要ごとに下位システムを分出させることを、システムの機能的分化と呼びます。

■システム存続に必要な諸機能の一部を分掌する下位システムを、単に全体に対する部分や部品と等置してはいけません。私たちが「部分システム」という巷で用いられる名称を使わない理由もそこにあります。部分や部品は必ずしも機能の分掌を意味しないからです。

■人体のシステムにとって臓器は部品であり、臓器のシステムにとって細胞は部品であり、細胞のシステムにとって細胞内器官は部品です。ことほどさように、有機体的システムは、環境に開かれた定常システムであることで、上方ならびに下方に開かれます(連載第三回)

■システムは前提供給のループです。システムが別のシステムと前提供給のループをなせば上方のシステムを構成できます。またシステムを構成する前提供給のループの担い手自体が下方のシステムたり得ます(連載第三回)。これらは全体と部分の範疇に収まります。

■ところが、下位システムと呼ぶ場合、単に下方のシステムあるいは部分のシステムではなく、「機能的分掌をなす」下方のシステムを指します。だから人体にとっての下位システムは単独の臓器や細胞ではなく、免疫システム・神経システム・循環器システム等です。

■免疫システムは異物侵入を無害化する機能を担います。神経システムは外的刺激に即時に反応する機能を担います。循環器システムはリソースを運搬する機能を担います。全体に関わる機能を分担する選択接続がポイントで、空間的局域を(必ずしも)意味しません。

■社会システムが、経済システム・政治システム等を下位システムとするという場合も同じで、部分(空間的局域)が、異なる機能を分掌するとの意味では必ずしもない。この点、デュルケームが有機的連帯たるべしと述べた近代的分業概念との混同には注意が必要です。

【下位システムへの分化の利得と、癒合の阻止】
■とはいえ類似点も重要です。一単位で複数の機能を包括的に担うより、単位ごとに異なる機能を分掌した後に連帯した方が多くの富を分かち合えるとの発想は、「分化と統合による遂行能力performanceの上昇」という、機能的分化の機能(利得)を言い当てています。

■即ち、システムが自らの存続に必要な機能的達成を下位システムに委ねる必要は必ずしもないが、下位システムをあえて分出することの利得は機能的な遂行能力の上昇にあります。この遂行能力の上昇は、生き残り戦略上有利で、近代社会の圧倒的強さを帰結します。

■機能的に分化した近代のシステムは、他よりも多くの人口を養えて、他よりも高度な技術を達成でき、他よりも人々の雑多な要求に応じられ、他よりも人々の多様な行動や内面を許容できます。だから近代社会は他の社会を打ち負かし、また人々は近代化を選びます。

■システムが複数の下位システムへと機能的分化を遂げている場合、個々の下位システムは、他の下位システムの作動を、自らの存続にとって必須の環境とします。即ち、システムの中のシステムAは、システムの中の別のシステムBの作動を必須の環境条件とします。
■ルネ・マーギュリスの共生進化論を参照することで理解が容易になります。真核細胞生物の中にある細胞内器官(ミトコンドリアや葉緑体など)は元来別々の原核細胞生物でしたが、互いに共生関係に入ることを通じて、やがて一個の真核細胞生物へと進化しました。
■共生関係に入った原核細胞たちと、一個の有機体になった真核細胞は、どこが違うのか。一個の有機体たる真核細胞が死ぬと、内部の細胞内器官たちも必ず死にます。他方、共生関係の原核細胞たちは、当該共生関係が消えても、別の共生相手を見つけて生きられます。
■この違いを、生物学は、共生関係にある原核細胞らが機能的特化を遂げて自立性を失い、互いの作動を組込み合わずに生きられなくなった結果だと記述します。細胞内器官の如き空間的局域ではありませんが、相互組込interpenetrationは下位システム間に一般的です。
■因みに、共生進化のメカニズムは、日本でクニの集合がいつから国家(全体社会)になり得たのか、あるいは今日でいえば国民国家の集合がいつから世界国家(全体社会)になり得るのか、を考える上でヒントになります。ここで全体社会とは一個の社会のことです。
■空間的局域ならぬ下位システム同士の作動の、組込み合いがあるなら、それらが癒合せずに機能的分化を継続し得る条件が重要です。神経システムが電気信号だけを選択接続のメディアとし、免疫システムが蛋白質の物理的外形だけをメディアとするのがヒントです。
■もはや答えは明らかでしょう。各下位システムを構成する選択接続=コミュニケーションが、何をメディア(媒体)とするのかが、癒合阻止のポイントになります。ここに、社会システムの機能分化との兼ね合いで、コミュニケーションメディアが問題になります。
■コミュニケーションメディアは選択接続の閉じを与えます。経済システムは貨幣(所有/不所有)、政治システムは権力(罰回避/罰)、科学システムは真理(真/偽)、宗教システムは信仰(超越/内在)、法システムは法(正義/不正義)が、(所有への、罰回避への、真への、超越への、正義への)動機形成と期待形成を通じて、選択接続を媒介します。
■因みに、憲法[国民(主権者)から国家(統治権力)への命令]に書き留められた人権は、国家が介入してはならない国民の行為領域を規定することで、コミュニケーションメディアによる選択接続の閉じが政治的に破壊される可能性を、抑止する機能を果たします。

【宗教優位の原初的社会/政治優位の高文化社会】
■今回は宗教システムとは何かをお話しします。近代社会の数多ある下位システムの中で、宗教システムを最初に扱う理由は何か。答えは、最も初期の未分化な社会が、宗教的に構成されているからです。それでは、機能的に未分化な社会とは、どんなイメージでしょう。

■社会システム理論家ニクラス・ルーマンは、機能的分化を遂げた近代の社会システムに至る社会進化を三段階で考えます。(1)環節的分化の段階。(2)階層的分化の段階。(3)機能的分化の段階。(1)の環節的分化の段階とは、部族社会が鱗のように分布するイメージです。

■この段階では、真核細胞の細胞内器官に進化する以前の原核細胞が一個の有機体なのと同じで、鱗に当たる部族社会が全体社会(一個の社会)です。即ち、部族社会内部で、経済機能(資源配分)、政治機能(集合的決定)、法機能(紛争処理)等を調達しています。

■但し近代社会と違い、各機能毎に下位システムが分化していません。その点は、(2)の階層的分化の段階も同じですが、違いは、階層的分化を遂げた社会が、征服被征服を通じて範域を拡げて高い部族と低い部族を貴賤序列化し、頂点へと集権化したものである点です。

■従って、(1)の環節的分化の段階──原初的社会──では部族毎が相互扶助で閉じた一個の社会ですが、(2)の階層的分化の段階──高文化社会──では各部族(だったもの)は以前よりも自立性を失って、集権化された配列の全体が一個の社会としての様相を強めます。

■とはいえ、(3)の機能的分化の段階──近代社会──に比べれば、まだ各部族(だったもの)の独立性は高く、集権化された政治権力によって政治優位の結合を示しているに過ぎません。即ち、政治権力の頂点が貨幣も法も真理も評判も独占しうる形になっていました。

■(1)の環節的分化の段階──原初的社会──は、部族同士の政治優位の結合(支配服従関係)が生じる以前に当たります。追って述べますが、高文化社会が政治機能優位なのとは対照的に、原初的社会は宗教機能優位です。だから宗教システムを一番最初に扱うのです。

【従来の宗教定義論の不備と、新たな宗教定義】
■宗教とは、前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能(を持つ装置の総体)です。この定義を理解するには、宗教定義の歴史を一瞥する必要があります。19世紀末の近代社会学誕生以降、宗教定義は、およそ二種類あります。

■第一は、聖俗二元図式を用いて、聖なるものや聖なる体験を宗教と呼ぶ定義。社会学者デュルケームや甥の人類学者モースが用いました。しかし聖なるものとは何かを巡ってこの定義は困難に陥ります。宗教定義の困難を聖なるものの定義の困難に移転しただけです。

■聖なるものを非日常的体験やトランス状態によって──日常的体験やシラフ状態との差異によって──定義するのが経験に即します。でもそうすると、ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます。

■この困難は早くから気付かれていますが、J.ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』(1938)やR.カイヨワ『人間と聖なるもの』(1939)等の社会学者や、V.ヘネップ『通過儀礼』(1909)やV.ターナー『儀礼の過程』(1966)等の人類学者に、脈々継承されています。

■第二は、究極性や最高性を宗教的なものと見做す定義です。様々な価値には前提被前提関係がありますが、前提とされるものを遡及し続ければ究極価値や最高価値が見つかるので、それを宗教と呼ぶ。先の定義が体験に即するのに対し、これは論理に即したものです。

■例えばT.ラックマン『見えない宗教』(1966)やP.バーガー『聖なる天蓋』(1967)等の社会学者が社会(ノモス)を支える究極の意味をコスモスと呼び、宗教だと見做します。日本でも岸本英夫『宗教学』(1960)が古くから宗教定義を究極性に求めています。

■しかしこの定義にも、先の定義同様、日常的に宗教と呼ばないものが含まれます。ケルゼン流の概念法学で把握された憲法は定義に合致するし、俗に言う「科学万能主義」の世界観も定義に合致しますが、私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います。

■聖なるものや究極性を持ち出す従来の宗教定義に換えて、社会システム理論家の私は第三の定義を提案します。「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする機能」を宗教的だと見做すのです(宮台真司『制服少女たちの選択』1994年203~228頁)

■偶発性とは可能だが必然でないこと。別様であり得たのにこうなっていることです。〈世界〉内の諸事象は偶発的ですが、大抵は事後的な前提挿入で受容可能になります。例えば、病気に罹ったという偶発性も、不摂生だったという前提を持ち込めば納得可能になります。

■ところが偶然の出会い・不慮の事故・突然の病等はしばしば、前提挿入をもってして納得不能な、前提を欠いたものとして現れます。これら個別の出来事だけではない。なぜ別でない「その」法則、「その」道徳があるのかも、前提を欠いた偶発性として現れ得ます。

■前提を欠いた偶発性は予期外れの衝撃を収拾不能にし、意味あるものには意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定にします。前提を欠いた偶発性は何らかの形で受け入れ可能なものに意味加工される必要があります。そうした機能を果たす社会的装置が宗教です。

■前提を欠いた偶発性の現れ方は社会システムのあり方に応じて変化します。また、受け入れ可能なものに馴致する対処メカニズムにも複数の方法があり得ます。前提を欠いた偶発性の「現れ方」と「対処メカニズム」の組合せが、宗教のバリエーションを構成します。

■今回は宗教定義で紙幅が尽きました。次回は、今述べた組合せによって現代的宗教に至る四段階の進化を記述し、現代的宗教が負う特殊な課題を明らかにし、「内在/超越」の二項図式で特徴づけられる宗教的コミュニケーションからなる下位システムを記述します。

MIYADAI.comより転載