【連載・社会学入門(2004)】二十回:法システムとは何か?(上)
MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司
■連載の第二〇回です。前回は「宗教システムとは何か」の後編でした。前編では、宗教定義史を振り返った上で社会システム理論的な宗教定義を示し、後編では、宗教進化論を紹介した上で、内在/超越の二項図式に基づく宗教的コミュニケーションを説明しました。
■今回は法システムについてお話しますが、前回扱った宗教進化論の知識が直接役立ちます。そこで若干の復習をしましょう。宗教とは、前提を欠いた偶発性を無害なものとして馴致する装置の総体です。偶発性の現れ方と馴致主体との組合わせが宗教類型を与えます。
■まず、偶発性が個別の「出来事」として現れるか、一般的な「処理枠組」として現れるかで、分岐します。次に、偶発性が「共同体」にとって問題になるが故に「共同体」が処理するのか、「個人」にとって問題になるが故に「個人」が処理するのかで、分岐します。
■原初的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」が儀式によって馴致します。例えば天災・飢饉などの期待外れでパニック状態となった共同体が、聖俗二元図式を用いた共同行為=儀式により、問題を聖化します。
■古代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「共同体」に対して現れ、「共同体」がこれを戒律として秘蹟化します。複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決し、この処理枠組を神が与えた戒律だと理解します。
■中世的宗教では、前提を欠いた偶発性が「処理枠組」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを信仰において秘蹟化します。階層化や征服被征服によって複雑になった社会では、処理枠組も、それを秘蹟化する神も、共同体でなく、個人のものになります。
■近代的宗教では、前提を欠いた偶発性が「出来事」の形をとって「個人」に対して現れ、「個人」がこれを馴致します。馴致には、幸せになるために呪術を行う浮遊系、ソレを不幸と感じる境地があるのみとする修養系、万事定められているとする覚悟系が、あります。
■宗教学では「内在/超越」という二項図式が登場する以前(原初的宗教)と以降(古代的宗教以降)を区別し、前者を「呪術」、後者を「(狭義の)宗教」と、しばしば呼び分けます。超越とは〈世界〉の外。内在とは〈世界〉の内。〈世界〉とはあらゆる全体です。
■一部の古代的宗教は、コミュニケーション可能なものの全体である〈社会〉でなく、ありとあらゆる全体である〈世界〉を唯一絶対神が作ったという観念を伴います。その結果、論理必然的に、「唯一絶対神は、内在なのか超越なのか」という二項図式が刻印されます。
■「所有/非所有」という二項図式を前提にして、所有に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「貨幣」であるのと同様、「超越/内在」という二項図式を前提にして、超越に向けた動機形成と期待形成を触媒するメディアが「信仰」であると見做せましょう。
【法とは紛争処理機能を果たす装置】
■実は今復習した宗教進化図式の中で、既に宗教から分化した法形成が言及されています。即ち、原初的宗教から古代的宗教への進化において、複雑になった社会は、期待外れに事前に処理枠組を準備して対処法を先決するのだと言いました。分化した法形成の萌芽です。
■連載でも述べましたが、法とは紛争処理の機能を果たす装置の総体です。紛争処理とは何か。紛争の抑止ではありません。紛争を公的に承認可能な仕方で収めることです。公的に承認可能な仕方とは、「社会成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方です。
■「収める」とは何か。紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦うことを以て「収める」こととし、その結果を「公的に承認」することもあり得ます。ただ、今日まで生き延びた社会はどこも、そこまでせずに、「手打ち」することを以て「収める」こととしています。
■従って、先の「公的に承認可能な仕方」は「手打ちの仕方」に結合しています。当事者が死滅するまで戦うのでなく「公的に承認可能な仕方」で「手打ち」するのは、単に人命や財産の損失の如き社会的損失を低く押さえるためでしょうか。無論それもあるでしょう。
■ですが、もしそれだけが重要なら「始めから戦わない」選択こそが賢明です。当然「それだと強い者のやりたい放題になるだろう」との反問が予想されます。そう。「やりたい放題は許さない」との意思を社会成員一般が持つことを、我々は常に当てにしています。
■「やりたい放題は許さない」という意思を社会成員一般が抱くと期待されている中で、紛争に際して「成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方で「手打ち」をし、それによって、紛争蔓延や復讐連鎖や相互殲滅を回避すること。これぞ、法の機能です。
【法定義論の二つの立場〜主権者命令説と慣習説】
■法の機能がそうしたものだとして、さてそうした機能を如何に実現するか。法定義の歴史を見ると、まさに機能の現実化を巡る思考の分岐が見出されます。法定義には、歴史的に遡ると、およそ二つの立場があります。法実証主義の立場と、自然法論の立場です。
■法実証主義とはlegal positivismの訳で、法は人が置く(pose)ものだとする立場ですから、本来「法の人定主義」と訳すべきものです。法理論上の嚆矢は、英国の功利主義者ベンサムの弟子ジョン・オースティン(1790-1859)による「法=主権者命令説」です。
■これは「主権者による、威嚇を背景とした命令」が法だとするものです。これは「命令を実効的ならしめる威嚇をなし得る者が主権者だ」との含意を含みます。ソクラテスが毒杯を仰ぐ前に述べた「悪法もまた法なり」の言葉も、この立場を正当化しそうに見えます。
■この立場は「得になるから従う・損になるから従わない」という法に関わる重要側面に言及します。しかし不十分さは一目瞭然です。この立場によればどんな内容の法もあり得るからです(法内容の恣意性)。ところが実際、各社会の法には共通部分も大きいのです。
■かくして、法内容の恣意性を根拠にした法実証主義批判の立場は、直ちに自然法論に結びつきます。自然法論の歴史は古く、後期ギリシア思想(ストア派)を源流としたローマ法思想──自然の理(自然法)に由来する万民法──にまで遡ることができるでしょう。
■ですが法理論上の嚆矢は「国際法の父」グロティウス(1583-1645)です。中世を通じ、欧州では自然法=神法と理解されましたが、三十年戦争の惨禍を見た彼は、人間的本性に基づく自然法が国家や宗教を超えてあり得るとし、これを国際法の根拠に据えたのでした。
■人間的本性の概念は論争的ですが、彼が本性は慣習に現れると見做すこともあり、近代の自然法論は事実上「法=慣習説」です。確かに各社会の慣習には似たものが多いのです。でもこの説だと、近代社会で日々反復される法変更(立法)を、基礎づけられないのです。
■かくして「法=主権者命令説」に依拠すると「法内容の恣意性」を克服できず、「法=慣習説」に依拠すると「法変更の可能性」を基礎づけられません。「成員一般が受容するだろう」との期待される「手打ち」を、威嚇が慣習かのいずれかだけではもたらせません。
【ハートの言語ゲーム論的な法定義】
■そこで「法=主権者命令説」と「法=慣習論」の難点を双方取り除くことを目指した法理論をH・L・A・ハートが『法の概念』(1962年)で提唱します。ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を下敷きにした理論は画期的で、社会システム理論にも影響を与えました。
■ハートは法現象を「責務を課す一次ルール」と「それに言及する二次ルール」の結合だとします。前者は、社会成員が相互に一定内容の責務を課し合う言語ゲームがあるという事実性に対応します。ゲームの内的視点(当事者の目)には一次ルールは見えていません。
■後者は「責務を課す一次ルール」が孕む問題に一定形式で対処し合う二次的な言語ゲームがあるという事実性に対応します。この二次ルールに基づくゲームは、一次ルールに基づく言語ゲームを外的視点から観察し、伏在していたルールを可視化、問題に対処します。
■二次ルールには、相互の責務を最終確認する「承認のルール」、相互の責務を変える「変更のルール」、違背を確定して対処する「裁定のルール」があります。例えば、立法は、立法者や立法手続や内容制限を与える「変更のルール」に従った、二次的なゲームです。
■裁判は、裁定者や裁定手続や内容制限を与える「裁定のルール」に従った、二次的なゲームです。立法や裁判を含めて、現行、何が互いの責務や権能なのかを我々が確認する場合、公文書や謄本(法テクスト)を参照します。これは「承認のルール」に基づくゲームです。
■「承認のルール」は、会社設立のために登記関連の法律を調べるなどの場合のみならず、判決理由で法の在処に言及する場合も、議会で修正すべき法に言及する場合も、用いられます。その意味で立法や裁判の営みは、その「内部」で「承認のルール」を前提とします。
■加えて、立法や裁判のゲームを支配する「変更/裁定のルール」自体の妥当性も、その「外部」に存在する、最終的に何か(憲法や皇帝の言葉など主権者の命令)を参照してルールを確認するというゲーム(を支配する「承認のルール」)によって、与えられています。
■この最後のゲームを支配するルールは、妥当性を確認するゲームを外に持たないので「究極の承認のルール」と呼びます。ゲームのルールに言及して正当化するゲームを積み増しても、最後はルールに言及して正当化できないゲームが事実性として残るということです。
■ハート理論は伝統的法理論の難点を克服していますが、社会システム理論から見て幾つか難点があります。最大の難点は法進化史の記述に表れます。彼は一次ルールだけからなる「原初的法」と、一次ルールと二次ルールの結合からなる「発達した法」を区別します。
■ところがハートの「発達した法」には、改変不能な最高基準を含んだ「高文化の法空間」と、全ての法の改変可能性を法テクストの内部に書き留めることでリーガリズムを帰結する「近代実定法の法空間」とが、両方含まれていて、機能的差異を記述できていません。
■これは、裁判所による先例や契約の参照を、司法ばかりか立法の制約にも用いることで、憲法を持たずに近代社会を営む英国法の、伝統下にあるが故の英国流バイアスです。だから、憲法を含めて原理的に改変できない法を持たない近代社会の記述としては不十分です。
■「やりたい放題は許さない」との意思を社会成員一般が抱く(責務を課し合う)と期待される中、複雑で変更不可能なものがないと予期される社会であっても、紛争に際して「成員一般が受容するだろう」と期待できる仕方で、「手打ち」を可能にする方法はあるのか。
■この問いに答えるべく、次回は(1)社会システム理論家ニクラス・ルーマンの法システム理論を紹介した後、(2)幾つかの問題点を指摘し、(3)我々の代替案を提示した上で、(4)それを踏まえて、近代社会へと向かう法システムの進化図式を簡略に提示したいと思います。
MIYADAI.comより転載