【連載・社会学入門(2004)】二一回:法システムとは何か?(下)

MIYADAI.comより転載
社会学者・映画批評家 宮台真司

■連載の第二一回です。前回は「法システムとは何か」の前編でした。法とは、紛争処理の機能を果たす装置でした。紛争処理とは紛争の根絶ではなく、公的に承認可能な仕方で──社会成員一般が受容すると期待(認知的に予期)できる仕方で──収めることでした。

■公的に承認可能な仕方で「手打ち」をする。それが法の機能です。どちらかが死滅するまで戦う代わりに「手打ち」をするのは、生命や財産などの社会的損失を抑える意味があります。でも、それだけが重要なら、初めから戦わないという選択もありそうに見えます。

■しかしそれだと強い者のやりたい放題になってしまう。今日まで続いた社会はどこでも、「やりたい放題は許さない」という意思(規範的予期)を社会成員一般が持つことを前提にしています。だから、やりたい放題に対して断固戦い、その上で「手打ち」するのです。

■公的に承認可能な「手打ち」を実現する方法を巡り、法定義が分岐します。伝統的には、法実証主義的な「法=主権者命令説」と、自然法思想的な「法=慣習説」が、対立します。でも前者は、法内容の恣意性を克服できず、後者は、法変更可能性を基礎づけられません。

■双方の難点を克服するべくH・L・A・ハートの言語ゲーム論的な法定義が登場します。それによると法現象は、社会成員が互いに責務を課し合うというゲームを支配する一次ルールと、一次ルールの孕む問題に対処するというゲームを支配する二次ルールの、結合です。

■一次ルールの孕む問題は複雑な社会で顕在化します。即ち不確定性(何がルールかを巡り争いがち)や静的性質(変化しにくさ)や非効率性(自力救済のコスト)が問題になります。これらに対処するのが、承認・変更・裁定の二次ルールに基づく二次的ゲームです。

■むろん承認や変更や裁定の二次ルールを巡る疑義が生じる場合もあります。そこで立法や裁判を支配するこれら二次ルールの妥当性を、改変不能な最高基準(憲法)を参照して確認する「最後のゲーム」が要請される。これを支配するのが「究極の承認のルール」です。

■ハートの議論は、単純な社会の法現象と複雑な社会のそれとを関係づける卓抜なものですが、難点がありました。憲法(最高基準)を参照しながら行われる変更のゲーム(立法)が憲法を如何ようにも変え得るという近代実定法的な事態を、うまく記述できないのです。

■そこでは究極の承認のルールと変更のルールが円環します。かかる円環がある場合、言語ゲーム論的には単一のゲームと見做されます。ハートはこの円環を線形に引き延ばすので、変更不能な最高基準を持つ高文化の法と、そうではない実定法を区別できないのです。

【法定義の基礎は原初的社会にある】
■さて話を社会学に引き戻し、立ち位置を確認します。法実証主義に見られるように法学では司法権力の存在で法を定義する仕方が一般的ですが、間違いです。司法権力の存在しない社会には法がないことになるからです。こうした批判の嚆矢が、マリノフスキーです。

■彼によれば未開社会には司法権力と等価な社会現象が見出されます。トロブリアントに特徴的な、紛争の際の自殺。中国で伝統的な、公衆の面前での口論。多くの社会における、嫌疑が濃厚でない場合の呪術の遂行。これらは公的に承認可能な「手打ち」だと言います。

■これとは別に、威嚇による紛争回避が法の機能だと見る通念もありますが、間違いです。なぜなら「人を殺してはいけない」というルールを確立した社会を我々は知らないからです。代わりにあるのは、「仲間を殺すな」と「仲間のために人を殺せ」というルールです。

■後述する通り、原初的社会では血讐(同害報復)が権利でなく義務です。「殺してはいけない」がルールであるためには「やりたい放題は許さない」との意思が表明される必要があります。原初的社会では、侵害を受けた当事者が意思を表明することが期待されます。

■この期待は認知的予期(だろう)でなく規範的予期(べきだ)です。当事者が意思を表明しないなら、侵害を受容したことを意味してしまい、共同体メンバーの資格を失います。逆に言えば、当事者による血讐は社会成員一般の規範的予期によりサポートされています。

■サポートの在処が明確なので原初的社会の血讐は復讐連鎖にはなりません。「やられたのでやり返した」時点で公的に承認可能な「手打ち」がなされたことになります。以前述べた通り、何かがルール(制度)だとは、違背に際し社会的支援を当てにできることです。

■ハートは「単純な社会には、責務を課す一次ルール(に基づくゲーム)のみがある」というとき、古典人類学を背景にこうした血讐社会を想定しています。ハートと同じように社会学者ルーマンも、こうした血讐社会を、法分析ないし法定義の出発点に据えています。

■ここで、我々の立ち位置を確認できます。我々の複雑な社会と共通性の薄い、原初的社会の法現象に立ち戻ることで、どんな社会にも要求される法的機能とは何かが分かるのです。我々の立場では、法的機能とは、公的に承認可能な「手打ち」を可能にする機能です。

【ルーマン法理論の概略と問題点】
■ルーマンも、原初的社会を参照しつつ、法を「予期の整合的一般化」、即ち㈰内容的一般化と㈪時間的一般化と㈫社会的一般化が重なることだと定義します。つまり、㈰文脈自由な一般範疇で行為に言及する㈪規範的予期を㈫社会成員一般が抱くとの認知的予期です。

■ハートが「法とは、単純な社会では責務を課す一次ルールだ」と述べるのと酷似します。ハートは「単純な/複雑な社会」の二段階で法進化を記述しますが、ルーマン「原初的な法/高文化の法/近代実定法」の三段階です。「複雑な社会」が二つに区分されるのです。

■この構成が、先に述べたハートの欠陥に対処する意図なのは明らかです。原初的な法は、法的決定手続を生み出していない段階。高文化の法は、法的決定手続が法適用(裁定)にのみ限定される段階。近代実定法は、それが法形成(立法)にまで拡張される段階です。

■ここで、法的決定手続とは「制度化することの制度」。即ち、手続経由で表明された予期が制度になるという制度です。特定役割を帯びる者が社会成員一般を代理することで、手続経由で表明された規範的予期を社会成員一般が持つとの認知的予期が可能になります。

■「制度化の制度」としての法的決定手続という概念は、ハートの「一次ルールの孕む問題に対処する二次ルール(に基づくゲーム)」という概念と酷似します。ハートとの決定的違いは、以下に述べる、高文化段階と実定法段階との差異の記述力において、表れます。

■ルーマンによれば近代における法の実定性は単なる人定性、即ち人が作ったという観念ではありません。スパルタにおけるリキニウスのような一回的立法の観念はありふれます。実定性の本質は、「いつでも法を変えられる」という、法変更可能性の持続的法体験です。

■この持続的法体験を与えるのが、法変更についての法の存在(法変更の合法化)です。この法についての法という再帰性で、㈰法が社会を学習し得る度合が格段に上昇して社会の複雑化に道が開かれ、同時に㈪法は法にだけ服するという形で他の領域から自立します。

■ルーマン的には、(憲法に基づく)究極の承認のルールの下に変更のルールがあるというハート的な階層性は、変更のルールが憲法改正にまで言及することで破れ、究極の承認と変更とが円環する一つのゲームになっています。それが近代実定法の特徴だと言います。

■こうしたルーマンのシステム理論的記述は、ハート理論の記述力を引き継いだ上で、ハート理論の問題点──高文化段階と実定法段階が区別できないこと──に対処することを目標にしています。この記述目標は、以上に記した様に、概ね達成されていると見られます。

■ルーマン法理論の不備を敢えて言えば、法定義の非一貫性です。予期の整合的一般化は、原初的な法にのみ妥当します。「高文化段階以降、法は決定前提複合体へと変化する」と彼は言います。決定前提複合体は、予期の整合的一般化から大きくズレることになります。

■彼の弥縫策的アイディアは、決定手続における「制度化の制度」が、決定の事後に予期を整合的に一般化する(制度を生み出す)とするものです。ですが、法的決定手続を「制度化の制度」と見做す彼の考えは誤りです。私は「法の社会制御理論」的誤謬と呼びます。

■ハートは二次ルールに基づく営みが一次ルールを改変するとし、ルーマンは法的決定手続が予期の整合的一般化を改変するとしますが、裁定と立法が規範を示すとの新派刑法理論的発想は、大半の人々が判決や法律を知らないという伝達問題によって、裏切られます。

【決定の人称性と、法進化の歴史】
■伝統的な法定義史に見られる欠陥を克服するハート理論・の欠陥を克服するルーマン理論・の欠陥を克服する理論は、可能でしょうか。答えはイエス。一貫した法定義はひとまず、「法の機能は、紛争を公的に承認可能な仕方で手打ちをすることだ」というものです。

■この法定義の含意を汲み尽くすには、「公的に承認可能な(=社会成員一般が受容するとの認知的予期が可能な)仕方で、手打ち(=死滅するまで戦わずに決定に従う)することが可能なのは、如何にしてか」という問いが、首尾よく答えられなければなりません。

■秘密は「決定の人称性」にあります。決定の人称性とは、決定(を告知する発話)に表明される予期の選択性が誰に帰属されるかを示す概念で、特定人称性/汎人称性/奪人称性を区別できます。特定人称性とは、予期の選択性が特定の人たちに帰属できる場合です。

■これに対し、汎人称性とは、予期の選択性が任意の社会成員に帰属できる(皆の決定だと了解できる)場合です。奪人称性とは、予期の選択性がどの社会成員にも帰属できない(特定の誰かの決定だとは了解できない)場合です。合わせて、非特定人称性と言います。

■これらの概念を踏まえて、先の法定義を膨らませれば、「法とは、紛争を、社会成員一般(任意第三者)が受容するだろうとの認知的予期が可能な仕方で手打ちするために必要な、決定(を告知する発話)の非特定人称性をもたらすための、機能的装置の総体」です。

■原初的な法では、慣れ親しんだ自明性ゆえに、整合的に一般化された予期が存在するので──責務を課し合うゲームが齟齬を来さないので──、血讐を宣言する当事者の決定は、自ずと汎人称性を帯びます。即ち誰が当事者でも同じ決定をすると認知的に予期されます。

■慣れ親しんだ自明性が破れる複雑な社会では、もはや予期の整合的一般化があり得ないので──責務を課し合うゲームが齟齬を来すので──、血讐的な自力救済の決定は恣意性を免れず、それゆえに「終わりなき復讐連鎖」を招き寄せる蓋然性が、自ずと高まります。

■そこで、高文化段階では「権威ある裁定者」の役割が登場、報復の程度や方法を決定するようになります。現存する法(整合的に一般化した予期)が裁定を拘束するという観念の成立がこうした法進化の前提条件です。これを真に受けると裁定の発話は汎人称的です。

■これは擬制です。なぜなら整合的に一般化した予期(疑念なき一次ルール=慣習規範)の分解に対応して出て来るのが、権威ある裁定者だからです。権威ある裁定者は、慣習規範と異なる場所から裁決規範を持ち出します。その裁決規範には幾つかの類型があります。

■社会空間のまだらをカバーする「神聖な法」を持ち出すのがイスラム法ですが、近代実定法へと繋がるのは、裁定の累積(コモンロー)や専門家による培養(ローマ法)を通じ、裁決の決定前提を法テキストに書き留める場合です。いずれも、決定前提は奪人称的です。

■「神聖な法」は社会の外側にある神のメッセージなので、奪人称的です。コモンローは端点を歴史的記憶の彼方に溶け込ませるので、奪人称的です。ローマ法は膨大な数の専門家が時間をかけて特定紛争と無関連な概括規範を練り上げたものなので、奪人称的です。

■奪人称的な決定前提から導かれる(と見做される)裁定は、過程が三段論法的な演繹に基づく場合も、類似からの帰納に基づく場合も、奪人称性を帯びます。もはや汎人称的であり得ない決定を、奪人称化するのは、法的決定を特殊利害から有効に隔離するためです。

■神ならざる人が練り上げたにもかかわらず奪人称的な法的決定前提を持ち得た社会だけが、法変更の合法化を法テキストの全域に及ぼし、法変更可能性の持続的法体験を与える実定法に道を開きます。法変更は社会成員一般を拘束する政治的意思決定が生み出します。

■近代社会では一部例外を除き、法変更(立法)の政治的意思決定は、投票(選挙)に支えられた代議制下での、投票による議決(多数決)がもたらします。選挙にせよ多数決にせよ投票による決定手続は、事前の不確定性ゆえに、決定を奪人称化する機能を持ちます。

■従って法変更のための法に従った政治的決定が生み出す新たな法的決定前提は、かかる政治的決定が変更の不作為によって維持する旧来の法的決定前提ともども、政治的決定手続の奪人称化機能ゆえに、法変更の持続的法体験にもかかわらず、奪人称性を維持します。

■かくして法進化史を通じて法的決定は必ず非特定人称化されています。ただし、非特定人称的な決定が全て法的ではあり得ません。社会成員一般が受容することを認知的に予期できることを正統性と呼びますが、非特定人称性は法的決定の正統性の必要条件なのです。

MIYADAI.comより転載