【文字起こし(前編)】宗教と自意識の檻~私たちの生きづらさはどこからきて、どこへいくのか?
開催日:2022年1月22日(土)16時〜
文字起こし:渡邉佳奈子さん
イントロダクション
阪田晃一氏(以下、阪田):皆さんお待たせしました。では始めます。今日は会場と配信のハイブリットで開催しています。
今日の題名は「宗教と自意識の檻」で「私たちの生きづらさはどこから来て、どこへ行くのか」という副題をつけております。本当は「メタバースは福音なのか?」という副題にしていたのですが、分かりにくいと思って変えました。先ほど宮台さんとも打合せをしましたが、最近の宮台さんのTweetでもあったように、「言葉にとらわれる」ということや「言葉から自由になる」というようなテーマで話を始めたいなと思います。宮台さんいかがでしょうか。
宮台真司氏(以下、宮台):問題ないです。最近は神学書を家中に置いて読んでいました。妻から「しんちゃんどうしたの?」と訊かれて「YMCAで宗教のことを喋るから」と答えたら「なるほど」という遣り取りがあったところです。だから神学の話をするつもりで来ましたが、「神学としての神学」に興味がありそうな人が年齢的にいなさそうですね(笑)。
ちょっとお尋ねします。10代の人どれくらいいますか?(挙手)10代か5人もいるんですね(会場拍手)。じゃあ20代の人はどれくらいいますか?(挙手)これは10数人ですね。30代の方は?(挙手)6、7人ですね。40代の方は?(挙手)あー**さん40代なんですねえ。
会場:えー、先生!(会場笑)
宮台:はい、じゃあ50代の方?(挙手)はい、ありがとうございます。分かりました。20代と30代がボリュームゾーンですね。であれば、キリスト教に対する偏見を取り除くというくらいの範囲で神学の話もしましょう。
阪田:それと、配信の「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編(2021年にオンライン配信したイベント)」に参加された方どれくらいいらっしゃいますか?(挙手)
宮台:3分の1くらいですね。分かりました。さわりから入りましょう。今日の午前中にかなりの数のツイートをしたんですが、見た方どれくらいいますか? 結構いらっしゃいますね。前の席の方ばかりということは、前のほうには熱心な方がいらっしゃることが分かりました(笑)。じゃあ、その話から入るといいかなと思います。
言葉の相対性 時代で言葉が変わる
まず、援交についてツイートしました。「援助交際」という言葉の指示対象は、僕が調べ始めた30年前からかなり変わりました。もちろん「パパ活」「トー横界隈」「女風(女性用風俗)」という言葉は30年前にはなかった。ということは、「援交」ないし「援交界隈」について、皆さんが想像できることは、今的なイメージに限られているということです。
次に、Twitterで話したのは人格障害の話です。明治四〇年に刑法が定められた時から、三九条に「心神喪失者の行為はこれを罰せず」という規定がありました。つまり「精神障害者は罰しない」ということです。人が悪いのではなく病が悪いのだから、人を罰するのではなく、病を治せという図式ですね。だから刑罰ではなく医療行為の対象になるのですね。
ところが、一九六〇年代末から、イギリスで「行為障害」(他人の人権や社会的な規範を侵害する行動を持続的かつ反復してとること)、そして一九七〇年代に入って、アメリカでほぼ同じ意味で「人格障害」という言葉が使われるようになりました。平たくいえば、日本でかつて「性格異常」と言われていたものと同じです。
でも、どんな文脈で使うのかが変わりました。「性格異常」という表現は、客観的な「異常」と「正常」があるという考え方です。ところが「人格障害」という場合、発達障害と同じく、スペクトル(連続的分布)を前提として「非標準的」という意味でdisorder(障害)という言葉を使います。「社会で標準だとされているものと異なる」という意味です。
つまり、illness(病気)やsyndrome(症候群)ではないということです。「人格障害」も「発達障害」も病気ではないんですね。病気ではないので刑法三九条での罪の減免要件にならず、原則罰せられます。標準という概念は「社会的標準」という意味なので、何が非標準的なのかは、社会によって、時代によって、当然のように変わるということです。
だから「人格障害」という概念は「社会相関的・時代相関的」という意味を含むことになります。であれば、日本社会に限定すれば、標準がどう変わってきたのかが問題になります。ツイートしたように、僕が小さい頃は蛙のケツに爆竹をぶっ刺して爆発させるとか、ミミズを切り刻むとかは当たり前でした。でも、今それをやれば「人格障害」だと診断されます。
僕はASD(自閉症スペクトラム)の広汎性発達障害とADHD(注意欠如多動性障害)の併発群という分類に属する者ですが、僕について言えば「昔は標準に無知だったけど、今は標準を知って、ちゃんと『なりすまして』いるよ」という感じです。つまり、これが「発達障害」という言葉の使われ方で、「人格障害」も同じ使われ方をします。
大事なのは僕が小さい頃はASDやADHDという言葉がなかったこと。かつて自閉症という言葉が指すものは、自閉症スペクトラムという言葉が今指すものと比べると10分の1以下の範囲でした。例えば、自閉症は学童期までの障害だと思われていたんですね。今はそうではなく、成人であっても、老人であっても、ASDだと診断されるんですね。
自閉を英語ではAutism(オーティズム)と言い、自閉症はAutism Syndrome(オーティズム・シンドローム)と言います。さっき話したように、シンドロームは症候群ですから、病気です。他方、ASDは、Autism Spectrum Disorderのことで、標準も非標準もスペクトラム(連続体)をなすということを表現していて、病気とは違うということです。
最近のDSM-5(精神障害の診断および統計マニュアルの第五版)によれば、そこで規定されているASDは人口の1割を超える割合です。なので、これを障害(disorder)だと考えるのもバイアスがかかっていて、「障害ではなく、種族(tribe)だと考えるべきだ」というのが、今ではアメリカの精神科医の大半から支持されている考え方です。
背景には進化心理学の発展があります。進化心理学によると、一割以上も存在するASDが淘汰されないで残っているのは、「我々が集団生活をする上で必要なクラスターだったからだ」ということになります。だから「ニューロ・マイノリティ」や「ニューロ・トライブ」呼ぶべきなのだと言われています。役割を背負った少数者の集団という意味ですね。
分かりやすく言うと、「危ないからみんなやめておこうよ」という場面で、「危ない?ならば俺は行くよ」と一人で出かけていくような「空気が読めないヤツ」。集団の生存確率を上げるにはKYが必要だったというのが、今の標準的な見解なんですね。そういうふうに、「発達障害」という概念は、新たに生まれただけじゃなく、生まれて以降も変わってきた。
「人格障害」という概念も、新たに生まれただけじゃなく、生まれて以降どんどん変わってきた。そういう言葉の変遷史を知っている。あるいは昔は言葉をあてがわれずに平気で「そういうこと」ができたことを知っている。それが大切です。「援交」「人格障害」「発達障害」という言葉は、新た生まれ、生まれて以降もシニフィエが変わってきているのです。
僕が昔のシニフィエを前提にして生きているとすれば、皆さんと僕は世界観が違うということになります。なぜこのツイートをしたのか。なぜそれを確認するのか。「ヒトが言葉を使って社会を生きる」ということの、ある種の奇妙な手触りを伝えたかったからです。言葉なんてその程度のものだという見切り。これは僕を含めた年長世代には当たり前なんです。
僕の母は少国民世代(終戦時に国民学校の生徒だった世代)ですが、敗戦直後に突然「教科書の墨塗り」をさせられています。高松大空襲も生き延びています。母は上海のフランス租界(一八四九年から上海にあったフランス人居住区)で生まれ育ちました。日本人標準とはだいぶ違う感覚を持つ人でしたが、それがそういう体験をしたのだから、大変なことです。
父は学徒動員で、後に富士重工になる群馬県太田の中島飛行機工場で戦闘機「疾風(はやて)」のエンジン組み立てをしていました。工場では、何かというと整列とビンタの嵐だったことを、よく話していました。「宮台、一歩前に出ろ、歯を食いしばれ、パーン!」というヤツ。それらを両親から語り聞かされた僕は、当然皆さんとは違う世界観を持ちます。
僕に激烈な体験の語り聞かせをした両親が、「言葉の自動機械」になることはありえないのです。言葉が張る世界観が一日にして変わる経験をした人間は、その経験ゆえに、言葉に囚われることへの生理的な嫌悪感を抱くのです。だから、両親から語り聞かせられた僕もまた、「言葉の自動機械」であることへの、生理的な嫌悪感を強く強く抱きます。
僕の本やツイートをフォローしていらっしゃる方は分かると思いますが、むろん子供時代の遊びの環境も大切です。「決まりを破ることがどの程度許されていたのか」「大人が禁止することをどれだけやってきたのか」「カテゴリー(性別や親の職業や階層)が違う連中とどれだけ『黒光りした戦闘状態』で遊べたのか」が、僕と皆さんとではまったく違うんです。
僕は、カテゴリーが違っても「同じ世界」で「一つのアメーバ」になる経験をしまくってきました。そうした経験の有無も、カテゴリー──これも言葉ですが──に縛られた「言葉の自動機械」への、なりにくさ/なりやすさを当然左右します。そうした経験があるから、僕は長じて、いろんなところに潜入するフィールド・ワーカーになれたわけですね。
今日は詳しく言わないけど、フィールドで1996年に生じた変化を観察できたことから、僕は人々の若い世代の感情の劣化が始まったと強く意識するようになりました。当初、若い人たちから「マウンティングかよ」みたいな反応がありましたが、今はまったくないです。若い人たちも、自分たちの感情的劣化を明確に意識する状態になっているということです。
可能な「程よい理解」 不可能な「厳密な理解」
僕は、感情が劣化した人間たちを「クズ」と呼んでいます。これは愛ある言葉です。実は「言葉の自動機械」「法の奴隷」「損得マシーン」で一組です。正確に言うとこれらは同格じゃなく、すべて「言葉の自動機械」であることに由来します。愛ある言葉だというのは、本人が悪い、自動自得だというのではなく、治せるものであることを語っているからです。
文明化以降の複雑な社会は、「言葉の自動機械」「法の奴隷」「損得マシーン」のクズに少なくともなりすまして生きないと「人は」社会を渡れず、そういう人たちが多くないと「社会は」回らない。行政官僚制が典型です。日本では役所を意味しますが、bureaucracy(官僚制)は民間企業にもあります。Administration(行政管理)という概念も同じです。
それを前提として話を先に進めると、マックス・ウェーバーが百年前に述べたように、問題は人がそこに「閉ざされる」ことです。この「閉ざされた」存在をウェーバーは「没人格lacking personality」と呼びます。それをパラフレーズしたものが僕の「クズ」です。クズとは、社会に必要なあり方が「仮面ならぬ素顔」になってしまった状態だと言えます。
それを「社会への過剰適応」と言います。「社会への適応」は「社会に」必要です。社会がないと「人も」生きられません。でも、仮面が素顔になれば、家族や地域の共同性がなくなり、「人間は」生きることが楽しくなくて生きづらくなり、また全てを共同体ならぬ社会がやらねばならなくなり、「社会は」回らなくなる。「社会への適応」には程良さが必要です。
でも複雑な社会が必要とする「部品としての」人間のあり方に「閉ざされて」しまう在り方が拡がりました。これは人類史上あり得なかった異常事態です。僕は明白に病理的な事態だと考えます。そのことを25年間一貫して考え、表明してきましたが、やっと多くの人たちに受け入れてくれるようになったので、今回のようなセッションがあるというわけです。
複雑な社会が必要とする「部品としての」人間のあり方に要求されるのが言葉のロゴス的な用法です。他方、仲間としてやっていくというあり方に要求されるのが言葉の詩的つまり歌のような用法です。最近まで祝祭や性愛の時空での言葉の用法として残っていましたが、それが私的な人間関係においてすらロゴス程度のものに閉ざされてしまうようになりました。
午前のツイートで話したように、いろんな学問が、ロゴス的な言葉に閉ざされるべきでないこと、ロゴス的な言葉の外に開かれるべきことを伝えてきました。午前のツイートでは半世紀以上の伝統がある解釈学と言われる学問を紹介しました。社会がこんなに変わってきたのになぜ僕らは隔たった時代の文章を理解できるのか。学校で習う古文を想像すればいい。
平家物語や源氏物語や枕草子でもいい。なぜ千数百年前の文章を理解できるのか。少なくともなぜ理解できた気持ちになるのか。これを解説したのがドイツの哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマー。彼は「地平(Horizon)の融合」によるとします。今日の学問を踏まえれば、ゲノムとそれゆえのアフォーダンスに紐付けられた「生活形式の同一性」だと言えます。
飯を食ったり糞をしたり人を好きなったり嫌いになったりといったことです。こうした「異時代間」の理解可能性の問題を、「異文化間」の問題に拡げたのがガダマーの影響を受けたカナダの政治哲学者チャールズ・テイラーです。僕らがアマゾン先住民が撮った映画や彼らが書いた文章を「間違いなく理解できた」と確信できるのは、なぜなのかということです。
彼の議論はカナダの多民族政策や多言語政策に大きく影響しました。その本質は、異文化だから理解できないとする浅はかな社会学的構築主義と違い、異文化なのに理解できるという奇蹟の感覚に「開かれる」こと。僕は言葉がほとんど通じない異国・異人種・異文化の女たちと親密に性交したことがありますが、そうした経験をすれば誰にも奇蹟の感覚が訪れます。
むしろ地平が同じだから、細かい営みの違いが理解できます。地平とは何か。先に語ったことを噛み砕きます。一つはgenomic(ゲノム的)共通性。それがあるので、同じような事物や身体の存在や動きに同じようにaffordance(環境から動物への呼び掛けcalling)されます。疲れた時に腰の高さの物があれば、物から「座れ」とアフォードされるでしょう。
もう1つはウィトゲンシュタインが言語ゲーム論で言う「生活形式の共通性」です。むろんgenomicなベースもあります。どんな文化や時代の人間でも、水を飲み、飯を食い、ウンコし、おならし、性交するし、それぞれに「いい/悪い」水・御飯・ウンコ・おなら・性交があると感じられます。これは法の共通性を論じる法理学において重要な論点になります。
政治哲学者ジョン・ロールスは『A Theory of Justice(正義論)』(1971)で社会の良し悪しを普遍的に識別できるとします。基本財の配分結果を巡って「君が僕でも耐えられるか。耐えられないなら悪い社会だ」と言います。これに対し、アラスデア・マッキンタイアやマイケル・サンデルが、社会次第で基本財の組が違うではないかと反論しました。
そうだと言えますが、そうでないとも言えます。ゲノムにも基礎づけられた「生活形式の同一性」が多少なりともあり、それに応じて機能的に共通ないし類似した基本財があると考えられます。例えば、どの文化の生活でも火へのアクセシビリティは基本財でしたが、最近はIHで大丈夫です。IHは機能的等価物ですが、火傷を巡る生活形式が明白に違います。
ウィトゲンシュタインはこれを「生活形式の家族的類似」と言います。同じだが違う。違うが同じ。これが「地平の共有」の根拠として皆さんにお示しできることです。本を読むと難しく書いてありますが、こうやって語ると簡単です。難しい思考はこの世界にはないと考えて下さい。同じ人間が考えているからです。学的な文脈を知るか否かの違いだけがあります。
僕らは「程よく理解する力」を誰もが持つのです。でもそれは「厳密に同じことを同じように体験できる力」を持つこととは全く違う。そのことも弁える必要があります。理解は常に既に不完全なのです。現に異時代理解や異文化理解と同じ問題が今は個人間にあります。誰もがバラバラの生育歴を持ちながら、SNSの遣り取りなどで「通じ合って」いるでしょう。
年齢も性別も地位も生育歴も違うのに、理解の完全性を信じて攻撃したりキャンセルしたりするクズが湧きます。これらは「言外への開かれ」を欠いた「言葉の自動機械」です。ネットコミュニケーションは文脈を遮断するので中学生が一流の学者にタメ口で語れます。良い面もありつつ、言外から「閉ざされた」クズの全世界的な量産があるのは、悪いことです。
そこから分かることは僕らは「言葉を使うが故に」有限の存在だということです。言葉を使えば必ず有限の存在になります。なぜなら世界は無限で未規定なのに言葉は有限で規定されているからです(正確には言葉は自然数のように可算無限なので実数とは濃度が違う)。だから時々言葉の隙間が露呈します。ジョルジュ・バタイユは「呪われた部分」と言います。
始め(アルケー)に言葉ありき(ヨハネ福音書)。この言葉は「神の言葉」。だか論理的に言って言葉以前に神があった。神は無限で未規定です。神の言葉も、その一部だけ聴き取ったつもりの人にとっては無限で未規定です。そんな人の言葉は、有限で規定可能です。だから、神は絶対、人は相対。ゆえに、神は人格ではない。ゆえに偶像化は許されないのです。
他方イエスは元々人格で、同じく人格である人々と遣り取りしました。人と遣り取りしたくなった神が送り込んだ特別な人格です(ベネディクト16世)。だから有限の人から見るとイエスの言葉には無限の言外があります。今回キリスト教徒でない方が大半ですが、今話している「神論」の揺るぎなき論理構造だけ理解して下さい。言葉とは何かの理解に必須です。
難しいでしょうか…。今日は同じYMCAとはいえ、前にやった「性愛ワークショップ」ではないので控えますが、本当はそっちに踏み込むとめちゃくちゃ分かりやすいんです。
(会場笑)
阪田:性愛に踏み込んでもらって構いません。踏み込まないと分からないっていうのは、最近よく思います。
宮台:うん。分かりました。
(会場笑)
言葉の自動機械の自由 自動機械にならない自由
宮台:なぜ「性愛」が切り口になるのか。皆さんはダメ意識や劣等感を持ったり「自分は価値のない存在だ」と思ったりします。つまり「尊厳=自尊感情」の問題です。これは「いいね!」ボタンがくれる自己肯定感ではありません。自尊感情がある存在は、その都度の自己肯定感が要りません。自己肯定感にこだわる存在は「言葉の自動機械」だと断定できます。
なぜか。それを語ったのがフロイト派の精神分析医ジャック・ラカンです。ラカンによれば「フロイトはそう語っている」。フロイトを読むだけでは分かりませんが、ラカンを介して読むと「そう言っているのかも知れない」と思えます。「ラカンはフロイトをそう読んだ」ということです。これは読むという営みの不思議な未規定性を指示しますが、飛ばします。
僕らは生まれてこの方、様々なものに言葉のラベルを貼ってきました。それは僕らの主体的選択はない。真の主体は「大文字の他者」つまり社会なのです。むろん社会は目に見えません。でも社会の代理人は目に見えます。「父」と言います。本当の父というより、父的機能のことです。その機能が僕らに言葉のラベルを貼るよう強いる。これを「抑圧」と言います。
分かりやすい重要な見解です。僕らは社会から代理人を通じて抑圧されて、「言葉のラベルなんて本当は貼りたくないのに」それを受け入れて生きるようになるわけです。「本当は貼りたくないのに」が大事です。フロイトによれば「抑圧は必ず不安を生む」からです。僕らは言葉を使っているだけで神経症的不安を抱いているという訳です。これは不自由です。
問題はここから先。言葉の有限性、あるいはそれ故の人間の有限性に気付けるかどうかが、不安から自由になれるか否かを決定的に分けるというのがラカンの考えです。そこから「自由」の概念を取り出して、それを強調したのがスラボイ・ジジェク。更にこのフロイト=ラカン的「自由」の概念をジジェク以上に強調したのが、アレンカ・ジュパンチッチです。
ジュリア・クリステヴァなどラカン派には女性の学者らの働きが非常に大きい。それも理由のあることだと思います。社会から代理人を通じて抑圧されて言葉をインストールされた人間のうち、それ故に不安を感じるのは、統計的な蓋然性として女性の側に多いだろうと推定できます。クリステヴァは月経・妊娠・出産などの身体性の然らしめる所だとしています。
「自由」というキーワード。これは、皆さんが凡庸な頭で想像する選択肢の多さとは違います。選択肢は全て言葉を通じて社会から与えられている。目標を立てて選択肢を意識してプライミング(未来の目標がその後の判断や行動を導く)されることで毎日活き活きと暮らせる。自己啓発本やカウンセラーが言うことですが、人を社会の奴隷にする完全なクズです。
自己啓発本は一頁目を読むだけで基礎教養を欠くのが分かります。クイズの三択問題のどれを答えるのも自由だと言うのが、クズ(言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン)の自由。そこには三択問題に答えない自由がない。こうした奴隷の自由とは全く別の自由がある。それは「言葉の自動機械にならない」自由。それがラカン派が説く自由で、僕が言う自由です。
全ては初期ギリシャに遡る
この「自由」はフロイトに始まる精神分析の系列で発見されたものではありません。僕は初期ギリシャ哲学に詳しいのですが、今から二千五百年以上前の紀元前5世紀の初期ギリシャが見出した「自由」に遡ります。初期ギリシャとはアテネがスパルタに負けたペロポネソス戦争が起こるまでの百数十年。初期ギリシャの人々が或るものを敵として考えた自由です。
ここで言う敵は、自分たちの真逆の構えを持つという意味。つまりenemy(エネミー)ではなくopponent(オポーネント)です。具体的には彼らが「エジプト的」と呼ぶ、後にキリスト教の母体になるユダヤ教・の母体になる紀元前六世紀のヤハウェ信仰です。ユダヤ人は自らがdiaspora(離散民族)である理由を、神の言葉を裏切るからだと考えました。
神の言葉(戒律)に従えば幸せになる。裏切れば不幸になる。だから神の言葉にちゃんと従え。これは条件プログラムのif-then文です。後のファリサイ派は613のミツワー(戒律)をユダヤ人の全員が一日でもちゃんと守れば直ちにユダヤ人全体に幸せが訪れると考えました。初期ギリシャの考えではこれはクズの奨励であり、浅ましくさもしくおぞましい。
条件プログラムに従って「いいことを期待して、何かを苦労してやる」。これは初期ギリシャにとっては「規定可能性へと閉ざされるがゆえに、神に依存して這いつくばる営み」。その逆が「未規定性に開かれるがゆえに、自立して前に突き進む営み」。背景に、重装歩兵によるファランクス(集団密集戦法)という戦争技法があった、というのが僕の見立てです。
「こうしたら死ぬかもしれない」という条件プログラムに拘わらず、そんな条件プログラムを全く知らないかのように命知らずに戦えること。そんな存在が「英雄」と呼ばれました。条件プログラムに従うのは「損得勘定」による。それを無視して前に進めるのは内から湧き出す「力」による。僕は、前者を自発性voluntary、後者を内発性inherenceと呼びます。
浅ましくnarrow mindedさもしいgreedy自発性と違って、内発性を帯びた人にだけ僕らは感染mimesisします。損得勘定に従う自発性は醜く、内から湧く力に従う内発性は美しい。これは外形の「美beauty」と区別された「美学aesthetism」です。初期ギリシャを参照する三島由紀夫の用法ですね。こうした内発性を尊ぶ構えが、元々の日本の「右翼」でした。
「実存existence」つまり生き方の構えから見ると、ユダヤ的生き方と初期ギリシャ的生き方が全く違うことが分かったでしょう。初期ギリシャが唱導する「条件プログラムへの依存からの自由」と、ラカン→クリステヴァ→ジジェク→ジュパンチッチの系列が言う「社会からインストールされた言葉からの自由」が、基本的に同じものを指すことも分かったはず。
ジュパンチッチは「あなたの言う自由は何か」と聞かれ、「痙攣する肉塊の自由」と答え、反カント主義者を自称します。難しく聞こえるけど、初期ギリシャ的とエジプト的の対立を踏まえると分かります。「選択肢群から主体が自由意志で能動的に選ぶ」というエジプト的思考を否定、「思わず突き進む」「思わず感染する」という中動的な痙攣を賞揚したのです。
ラカン派では、「選択肢群から主体が自由意志で能動的に選ぶ」とは、自由どころか、社会から言葉を抑圧的にインストールされた「言葉の自動機械」つまりクズです。カントの「意志の自由」は社会の奴隷であることだというのがラカン派です。それが初期ギリシャに由来する点で、古代ギリシャ文献学者ニーチェやハイデガーに通底する現代哲学だと言えます。
初期ギリシャの思考は、記録された最初の哲学者ミレトス学派タレスの「万物は水である」に象徴される通り、世界(あらゆる全体)を「流れ」と見ます。そうした思考を万物学physicsと言います。これに対し、後期プラトンに発する万物を統べる、神の如き抽象原理を持ち出す思考をプラトンの弟子アリストテレスがメタ万物学metaphysicsと名付けました。
初期ギリシャには掟が支えるものnomosとそれを含む万物の母胎physisの別はあれ、自然と抽象原理(絶対神)の概念はない。physicsを「自然学」と訳すのは、文化・対・自然という近代的概念に引き摺られた誤り。万物学の訳が適切です。万物学の思考は原始仏教に似て、万物を「流れ(実体)が作り出した淀み(形)」として捉える定常システム論に近い。
この思考は、抽象原理と人を分けるメタ万物学を拒み、絶対神を前提とした条件プログラムを拒みます。万物学の枠内での因果律としての条件プログラムは問題ない。毒をのめば死ぬなどで動物一般が従うものです。つまり問題になっているのは実存。ニーチェを介して初期ギリシャを引くウェーバーは、条件プログラムに依存しきる存在を「没人格」と呼びます。
宮台の「クズ」概念には、初期ギリシャを参照してエジプト的なもの(条件プログラムや選択主体)を否定するニーチェやハイデガーの現代哲学・を参照する、ラカン派「自動機械」やウェーバー「没人格」を踏まえます。一口で「自発性から内発性へ」。どれだけ勉強して「クズ」という言葉を使っているのかという話ですね。これは意図したマウンティングです。
(会場笑)
宮台:教養を披露するとマウンティングだとされますが、今朝ツイートしたように「マウンティングされる側に問題がある」で終了。大した知識量じゃないからです。いずれにせよ僕は皆さんに、偽の自由=「三択問題に閉ざされた主体の不自由」でなく、真の自由=「三択の外に開かれた脱主体の自由」を得てほしい。そのための分かりやすい通路が「性愛」です。
分かりやすい通路が「性愛」
性愛での「三択問題に閉ざされた主体の不自由」の典型が「好み」。イケメン好きとかオジサマ好きとか。社会から代理人を通じて抑圧的にインストールされた言葉の効果です。この不自由は親との関係への適応でもたらされます。抑圧的な父や母にも拘わらす、「この父や母はいい人だ」と思いたがることで、認知的整合化を通じて言葉のラベルを受け容れます。
認知的整合化とは心理学の概念で、変えられない認知(親に愛された自分など)に整合するように他の認知を歪めること。それによって認知のパッケージが恒常化される。僕は「自己のホメオスタシス」と呼びます。それで親との「課題の分離」(アドラー)に失敗します。親の目標を自分の目標だと勘違いすることです。それで各事象に言葉のラベルが貼られます。
親の快が自分の快に、親の不快が自分の不快になります。憎しみ合うなど親子関係次第では逆に、親の快が自分の不快に、親の不快が自分の快になります。かかる快不快のセットがあると、自分が望むように自由に主体的に振る舞うことで不自由に閉ざされます。「好み」以前に、性愛自体を嫌悪したり逆に耽ったりする場合にも、全く同じメカニズムが働きます。
イケメンやオジサマと付き合えば幸せになれるという条件プログラムは、言葉による拘束だから、性愛においてノイズです。性愛の「力の流れ」は本来その外で生じます。だから「性愛の時空」は、言葉で成り立つ「社会の時空」の外にあります。一緒にいる内に訳も分からず好きになり、「あなたが普段言ってる好みと違うじゃん」という話になるのが性愛です。
性愛は本来、言葉が支配する損得勘定(自発性)の外で働く、内から湧く力(内発性)によって駆動されるもの。社会は言葉・法・損得勘定の時空であることで回りますが、性愛は言外・法外・損得外の時空であることで回ります。社会には力の湧出口がありませんが、性愛(と祝祭)は力の湧出口です。だから社会に閉ざされていると力を失い、生き辛くなります。
定住段階へのシフトで、社会が生まれます。遊動段階では150人以下の集団で、他の猿類と同じく生存戦略×仲間意識で生きました。ところが定住段階は農耕の生産力が可能にした大規模集団です。農耕は集団作業と時間計画を必要とし、収穫物の保全・配分・継承を巡る紛争処理を必要とするので、言葉を用いた法が生まれ、法に従う社会が生まれました。
だから社会は言葉・法・損得勘定の界隈です。法社会学では法生活と言います。法生活は不自由です。続けると力を失います。だから定期的に祝祭します。祝祭は遊動段階での力の回復です。だから、定住を拒絶した被差別民たる非定住民が召喚されます。祝祭が終れば追放されます。これが、ケ(気energy)→ケガレ(気枯れ)→ハレ(晴れ)→ケ、の循環です。
定住下では、祝祭が社会にとって持つ機能と、性愛が個人にとって持つ機能は、等価です。共に力の湧出口です。ところが近代化とは資本増殖と行政官僚制のための計算可能化です(ウェーバー)。近代化で、計算が困難な祝祭がまず周辺化され、続いて性愛が周辺化されつつあります。人は力(内発性)を失った状態から回復できず、生き辛くなりつつあります。
力が湧き出す時空が聖sacredness。力を消費する時空が俗secularity。社会から祝祭が失われて生き辛くなり、個人から性愛が失われて生き辛くなりました。共に聖の消失です。言葉遣いに抵抗感があれば、前者にだけ聖をあてがうのでも構いません。でも機能的に等価な事態が生じています。だから近代と両立可能な枠内で力の湧出口を回復する必要があります。
僕が宗教ワークショップと性愛ワークショップを並立する理由が分かったでしょう。宗教の話をする際、性愛の話を切口にする理由も分かったはず。共に力energyの回復に関連するからです。力は身体に訪れます。主体には訪れません。身体は主体の乗物です。身体に力が訪れないと主体も動けなくなります。選択肢の多い「恵まれた社会」で生き辛い理由です。
ちなみに遺伝子の乗物が単細胞。単細胞の乗物が多細胞的身体。遺伝子が生き残るためのこの階層性をテレオノミーと言います。ところがヒトは多細胞身体に主体(選択する意識)を乗せました。目的のために選択する主体の意識をテレオロジーと言います。テレオロジーはテレオノミーとしばしば逆立します。それが、テレオロジカルな主体が力を失う理由です。
これは「手段の自己目的化」のロジックです。身体の生存確率を上げるための主体(選択する意識)というテレオノミーが、言葉と法と損得に閉ざされた社会の時空でテレオロジカルに暴走し、身体の持続可能性を脅かすからです。社会にも個人にもこの暴走を中和するメカニズムが組み込まれていました。後に宗教的と呼ばれる祝祭や、最近までの性愛がそうです。
祝祭と性愛が周辺化されたのは、近代化=計算可能化によると言いました。具体的には共同体の空洞化によります。祝祭と共同体の結び付きは自明なので飛ばします。性愛と共同体の結び付きは気付きにくいので説明します。どこでも生じる普遍的過程ですが、日本では一九八〇年代に進んだ「新住民化」の歴史を話すのが、皆さんには分かりやすいでしょう。
新住民化とは土地に縁のない住民の多数化です。なので土地の生活形式が与える共同身体性と結びついた掟が消えます。代わりに可視的な安全・便利・快適を支える法に依存します。
法化legalizationです。箱ブランコ・回旋塔・シーソーなど危険遊具が撤去され、ブランコの立ち跳びや座り飛び・打ち上げ花火の横打ち・工事現場の秘密基地が禁止されます。
地域が不信ベースになり、夜遅くまで男児女児が混然と「黒光りした戦闘状態」でドッヂやゴム跳びする営みが消えます。ヨソんちで御飯を食べたり風呂に入ったりの営みも消えます。かつての教室のように団地の子も百姓の子も店屋の子もヤクザの子も地主の子もいて混然と遊ぶ営みも消えました。「カテゴリーを超えてフュージョンする営み」が消えたのです。
子供たちがカテゴリーを超えて「同じ世界」に入り、「同じフロー」に乗り、「一つのアメーバ」になる営みが消えたのです。学問的に言えば、同じ事物や身体の動きに同じようにアフォードされ(呼び掛けられ)て同じように動ける共同身体性が消えました。それで言葉(カテゴリー)が所詮は言葉に過ぎないと見切る「言外のシンクロ」の感情的能力が消えました。
つまり、近代化=計算可能化によって共同体の生活世界が空洞化すると、直ちに「社会の外にある祝祭」が失われ、時間をかけて「主体の外にある性愛」も失われます。祝祭も性愛も社会を生きる「力」を与えるもの。その「力」が失われれば、社会も滅びます。社会から見るとノイズに見える、言外・法外・損得外を保全する共同体を失えば、社会は滅びるのです。
イエス信仰との出会いで「力」を回復した
僕がどのようにイエス──復活して永遠に生きるイエス──に出会ったかを話します。旧制高校から旧制東大に入った父が起点です。ルター訳新約聖書をドイツ語で暗唱していた。旧制高校生にはよくあること。中学に入ると聖書や神学者の本を読みました。中高紛争のアノミーの中、天文趣味で親しんでいた宇宙物理と同じ「変わらない超越」の話だったからです。
この頃に田川建三とトロクメの史的イエス論に出会います。その後は長くイエスを考えなかった。二〇代半ばからの十一年間のナンパ地獄を含みます。三〇代半ば過ぎに蝕が訪れました。九六年に街と人から微熱が消えた。大蔵省キャリア内定後の東大生女子から告白され、複数の女と性交しまくる生活を露悪して断った直後に、美しく聡明な彼女が自死しました。
相前後して世話になっていた編集者が自死し、続いて僕の読者の美しい少年が自死しました(『美しき少年の理由なき自殺』)。それで激しく鬱転しました。特に女子の自殺が大きかった。自分に断る以外の選択肢があり得たのか。偽って交際するべきだったのか。多分自分の十何年の生き方に問題があった。2ヶ月後に起き上がって、沖縄の離島に沈潜しました。
ある日、石垣島の人が絶対に入らない浜で覚醒後、ヒルギの森を歩き回って新生しました。水没したうえ辛うじて水面に浮かび上がるバプテスマで生き方が変わった。エレベータで目が合ったことから二〇〇五年に妻と出会って結婚。クリスチャンの妻繫がりで或る神父と出会い、教会の説教に疑問を述べたことで、旧約聖書の二人きりの読書会を呼び掛けられます。
悔い改めれば救われるというのは変だ。第一に、悔い改められる人はその時点で救われている。第二に、救われたくて戒律を守る者の救済をイエスが否定したのに、何故いつまでも罪の話をするのか。第三に、神は絶対で人は相対なのに、これをすれば救われると断じるのは瀆神じゃないか。第四に、神が全能なら、エデンの園での蛇の唆しは神の意志ではないのか。
全て罪に拘わる疑問でした。回を重ねた或る時、神父が言います。あなたの疑問は正しい。一九六二年の第二バチカン公会議で聖職者たちがそれに向き合った。後に社会学者となるイリッチも活躍した。それで悔い改めの教義は放棄された。それまで中世教会的道徳主義を変えられなかったのは聖職者がイエスが暗唱できた旧約聖書をまともに読んでいなかったから。
この間、僕はかつて読んだ田川建三やトロクメや八木誠一を読み直し、新たにヨセフ・ラツィンガー(ベネディクト16世)の本も熟読しました。そこで僕は「イエスという男」に感染し直し、イエスの世界観が心身に入ってきました。僕の出発点はキリスト教信仰というよりイエス信仰でした。イエス信仰ゆえにキリスト教を或る形で受け容れたという順番です。
読書会を始めて二年した頃、洗礼と堅信を勧められました。僕は「ナンパ地獄の11年」を話し、あり得ないと答えました。神父は、「第2バチカン公会議以降の中世的道徳主義との絶縁を話したはず。洗礼と堅信に条件はない。復活のイエスを信じられれば良い。刑に服した元犯罪者も本来なら神父になれるはず。あなたこそ信徒となるべきだ」と仰言いました。
僕は中学時代から一人で聖書と向き合ってきました。万人司祭主義を唱えたルターを思えばプロテスタント的です。でも僕が独学で辿り着いた祈りは共同体主義的です。僕が思うに最も重要な祈りは二つ。第一は「神よ、私が皆を裏切らないように見ていて下さい」です。第二は「それでも、私はあなたのものです(間違えていたら地獄に落として下さい)」です。
祈りを捧げる相手である神は、自分が「救われる」ための神ならぬ、皆のために突き進む自分を「強めてくれる」神です。真の救済とは、十字架を負った者が、神からの召命callingを受けて強められること。だから自分は裁かれても良い。それがイエス信仰の本質です。それを中世カトリックや今の米国プロテスタント(福音諸派)の一部が誤解してきた訳です。
旧約聖書に透徹した論理を見出したイエス
先に話した第2バチカン公会議以降、カトリック聖職者の多くが中世的道徳主義を改め、自分が良い(と思う)ことをしても神から裁かれ得ると弁えました。カルバン(今の長老派)が「良いことをするから救え」が神強制の瀆神だから、としたのと違い、「皆のため」の皆とは誰か、「終り良ければ」の終りはどこか、という未規定ゆえに間違うから、としました。
それが「私はあなたのもの(間違えていたら地獄へ)」という祈りです。皆のために突き進む者が間違えるのは、善悪を絶対的に識別できる神と違い、神の「似姿」に過ぎぬ人は、自らの視座に拘束された相対的な善悪しか分からないから。瀕死の子を救った天馬博士がモンスターを生み出すという、浦沢直樹「MONSTER」が鉄腕アトムの外伝として描いたことです。
現在のカトリックから見た場合、原罪とは、自らの視座に拘束された相対的な善悪しか分からないまま、それでも皆のために突き進むしかないことです。「皆のため」の皆とは誰か。「終り良ければ全て良し」の終りはどこか。これら克服しようがない未規定性を主題化する原罪論は、カトリックの神論の核を構成します。かつてYMCAの神論で語ったことです。
皆さんはキリスト教徒にならなくてもいい。但しカトリック教義学における神論とイエス論の緻密な論理構成を隅々まで弁えれば、皆さんの生き方(実存)が変わります。だからいま講義をしています。今日は主に言葉の話をしました。始めに言葉ありき(ヨハネ福音書)。人の言葉以前に神の言葉が在り、神が言葉を発する以前に神がある。透徹した論理性です。
すると、イエス論の核をなす「イエスの贖罪」の意味もおのずと明らかになります。相対的善悪しか分からないのに天馬博士(MONSTER)のように突き進んでいいのか。そう。いいのです。イエスが事前に罪を引き受けたからです。但し、飽くまで「あなたが見ていて下されば力が湧きます。でも間違えたら地獄へ」という祈りを唱えつつですが、突き進んでいい。
この但書の意味を天馬博士から学べます。医師の職を投げ打った天馬の善への突き進みで悪魔が生まれた。これが天馬にとっての召命callingとなり、彼は死ぬまでresponseし続ける。それが吉と出るか凶と出るか。その全体を神は裁きます。ただそこには愛がある。愛をもって裁く。神論のもう一つの核。神は感情的な存在です。だから人もそうなのです。
イエスが従前のパリサイ派的ヤハウエ信仰(ユダヤ教)を脱構築したポイントは、「未規定性にも拘わらず皆のために突き進め」という唱導にあります。サマリヤ人の喩に見る通り、戒律に従うと自分達が救われるから戒律に従って他者を助けるという利己的利他(自発性)は、さもしく浅ましい。単に助けたいという利他的利他(内発性)に従うことだけが善い。
強盗に襲われて瀕死の人が倒れている。でもラビ(聖職者)やレビ人(祭祀部族)は通り過ぎる。戒律に書かれていないから。でも被差別部族のサマリヤ人だけが宿まで担ぎ、有り金をはたいて助けてくれと頼む。イエスはあなた方が隣人としたいのは誰かと問う。そう。僕らが立派だと思うのは利他的利他の人だけ。今日的にはゲノム的基盤が見出されています。
こうしたイエスの構えは極めて初期ギリシャ的です。四つの共観福音書を含めた新約聖書はコイネーギリシャ語(広域のギリシャ標準語)で書かれます。神学者の多くが認識するようにそこには戒律の条件プログラムに這いつくばるエジプト的なものを軽蔑した初期ギリシアの響きを聴き取れます。「条件プログラムの意識」を超えた「感情の働き」を愛でる構えです。
それを描く傑作映画があります。ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン』。何の説明もなく背後にスコットランド独立運動が展開します。そんな社会と無関連に、人になりすまして人を捕食する異星人がいます。だが異形の人との出会いと或る男との性交を通じて感情を持ち、世界から社会に参入した途端、惨殺されます。そして神に召されるのです。
ラース・フォン・トリアー監督『奇蹟の海』(1996)に似た構成ですが、十年の時を経た『アンダー・ザ・スキン』(2006)はそれを凌ぐ傑作です。人を捕食し続ける感情を欠いた異星人は隠喩です。人が豚を食べるように異星人は人を食べます。そこでの善悪は相対的です。それでもあの異星人は天に召された。なぜか? ならば僕らは? 考える種は尽きない。
召天は、レイプ犯に惨殺された異星人の死体が、酷くも焼かれ、立ち昇る煙をカメラが追うと、入れ替わりにこんこんと雪が降る…というカットで示されます。最初の頃は何度観ても涙が出ました。意識を持つ存在である人間も異星人も、ソレとして生まれ落ちた境遇から出発するしかありません。ヒトのワザである民主主義をどう弄ろうが、決して中和できません。
皆さんは信仰を非合理的事物を信じ込むオカルトの類だと思っています。しかしヤスパースが「軸の時代」と呼ぶ紀元前6~5世紀に誕生した、高度な文明と結びついた宗教は(イエスが再発見した)ヤハウエ信仰であれ原始仏教であれ儒教であれ透徹した論理に貫かれ、大規模定住で失われがちな、しかし大規模定住の持続に不可欠な条件を考察しきっています。
それらには共通して、「初めから救われている者だけが救われるというトートロジーの否定」や、「利己的利他ならぬ利他的利他の肯定」や、「条件プログラムの意識(自発性)を超えた感情の働き(内発性)の肯定」といったメッセージが含まれています。その事実が、僕らに広義の(=キリスト教を超えた)エキュメニズムへと、道を開いてくれるでしょう。
皆さんはキリスト教徒にならなくてもいいと言いました。こうした透徹した論理を理解するだけでも多大だからです。但し御受難修道会の来住神父が言うように、そこに最後の1%が加わることで信仰者になります。それは啓示が訪れて召命callingされるという端的な体験です。それは「パウロの回心」のように、選ぶ能動ではなく、襲われて応える中動です。
質疑応答
阪田 ここまでの話で理解できなかったところがありますか?
******************以上前編・以下後編*****************************
(以上前編までで25000字=原稿用紙64枚です。質疑応答編が同じくらいの分量になりそうです。)