【文字起こし(後半)】宗教と自意識の檻〜生きづらさはどこからやってきて、どこへいくのか?

前半から

質疑応答

質問者1(男性):さっきの性愛の流れのところで、セックスをした後の二人を想像するというのがよく分からなくて。想像をすることが大切ということですか。

宮台:「賢者モード」がありますよね。男が射精して冷めることです。射精して性欲から解放される、という生理学的資質ゆえに、男は「射精中心主義」に傾きがちです。放っておくと女に、射精することまでがゴールになりがちです。放っておかれているので、今の若い男は特にそう。勃起して挿入して射精に至ることができないと、劣等感を抱くのです。

僕が語ってきたのは、性交(勃起・挿入・射精)に至るまでの「前半プロセス」を目標にするなということ。最近になるほど前半プロセスが本末転倒になりがちです。前半プロセスの本質は、「同じ世界」に入り、「同じフロー」に乗り、「一つのアメーバ」になること。ところが男が射精中心主義化し、女がメンヘラ化したことで、本質から遠ざかりつつあります。

メンヘラという言葉は、九六年から流行ったAC(アダルトチルドレン)から意味を継いでいます。自尊感情が乏しいので承認を掻き集める人のこと。男の射精中心主義と同様、女のメンヘラも、自己に閉ざされている。射精中心主義とメンヘラの組合せは需要と供給のマッチングとしてよく出来ています。それで構わないのであれば僕の話をきく必要はないです。

でも、ゆだねて明け渡した上で、「同じ世界」に入り、「同じフロー」に乗り、「一つのアメーバ」になる絶対的享楽に浸りたいなら、前半プロセスから全てが始まっています。そうなっていれば自然に性交に至ります。その意味でどんな風に性交に至るかが大事です。というのは、そうした前半プロセスを経なくても手順をマスターすれば性交までは簡単だからです。

ちまたのナンパ講座と僕のワークショップの違いがそこにあります。ナンパ講座は「バンゲから性交まで」が目標。僕のワークショップは「性交から絆まで」が目標。それを「後半プロセス」と呼びます。今話した通り、後半プロセスは前半プロセスの適切さが前提です。前半プロセスがいい加減でも性交の仕方次第で絆を作れますが、多くの人にはハードルが高い。

仕事や部活の共同作業で長く一緒にいて「同じ世界」に入れるかどうかを見極めるのと、ハードルが高いものの最初に性交して「同じ世界」に入れるかどうかを見極めるのは、機能的に等価な働きをします。最近になるほど社会が複雑化・流動化して人が人と長く一緒にいる機会が減った分、性交の重要性が高まっているのですが、むしろ性交の能力が下がりました。

そこに逆説があります。性交で「同じ世界」に入る能力は、同じ物や身体の動きに同じようにアフォードされる共同身体性を核とするので、幼年期に「黒光りした戦闘状態」に入って男女が団子になって外遊びする機会が奪われると、失われがちなのです。外遊びという誰かと長く一緒にいて「同じ世界」に入る機会が社会から減ることで、性交の能力も失われます。

性交で「同じ世界」に入るとは、二人揃ってトランス状態になって、自分の快楽なのか相手の快楽なのかも分からなくなり、時間感覚が失われることです。性交でそれを経験をした場合、男は賢者モードには入れません。後戯が大切だと思うからではなく、賢者モードに入ろうとしても入れないのです。そうした性交では、雑な言葉だけどやはり絆ができるんです。

絆は「言葉を超えた関係」だからです。性交で「同じ世界」に入ると、相手に夫や彼氏がいても、妻や彼女がいてもどうでもよくなります。それは言葉(カテゴリー)の外で繋がる体験です。とりわけ今どきの彼氏・彼女関係は「コクられてイエスと言うことで、互いに相手を束縛できる相互所有権を約束すること」だから、「同じ世界」に入る性交で吹き飛びます。

不倫炎上するクズが湧いています。特に女の不倫に女が炎上する。見ていて可愛相です。上から目線ではなく、「言葉や法や損得の外で繋がる性交を体験したことがないから、言葉と法と損得に閉ざされたクズに堕落したのだな」「こんなに閉ざされているということは、過去にも幸せじゃなく、これからも幸せになれないだろうな」と肌感覚で感じるのですね。

「絆とは言葉や法や損得の外で繋がることで、性交に際してはそのことを想像せよ」というのが質問への答えです。何度も言うけど、性愛は、言外・法外・損得外で繋がることをイメージするための切り口です。別の言い方をすれば、性愛で言外・法外・損得外で繋がれるには、性愛外でも言外・法外・損得外で繋がれること。性愛だけをつまみ食いはできません。

***********************

質問者2(男性):うまく表現できるか分からないんですけど……。

宮台:いいです。所詮は言葉だから(笑)。

質問者2(男性):男女間のセックス以外の方法で性愛を感じる術はないのかなと考えていて。男女間のセックスで実現できる性愛関係が、言葉を介さないで自分じゃない誰かとの身体を通して同じ世界に入るってことならば、スポーツとか、ほかの人と身体の動きでフュージョンするとか師匠の動きを真似るとかいったことでも、似たような感覚や状態になれるんじゃないかと僕は思っているんですけど。男女間のセックス以外の術はないのかなと。

宮台:仰言る通り。先に話したようにカテゴリーが違う子供たちが「黒光りした戦闘状態」で秘密基地ごっこしたり花火の横打ちをしたり夜遅くまで遊んだりするのは、まさに「同じ世界」でフュージョンする体験です。但しリチャード・ローティが言うように、子供時代にフュージョン体験がないと、大人になったときにフュージョンする能力が失われるのです。

例えばワークショップで著しい改善を見せる人には共通項があります。武術やスポーツや合奏の激しい訓練をしたことがあることです。「同じ世界」に入るという言葉のシニフィエを幼少期や小中高の体験に遡って想起できるからだと考えられます。そうした記憶がない男女は、記憶に参照点がないので、性愛で「同じ世界」に入れと言っても難しいわけですね。

すると「武術もスポーツも音楽もやってない自分はどうなる?」と。ある程度大丈夫です。アウェアネストレーニングの手法だけど、「今まで一番幸せだった時間を今目の前に展開しているようにまざまざ思い出して下さい」というリマインディングセッションをすると百%「誰かと一緒にいた時」を想起します。それは必ず誰かと「同じ世界」に入った記憶です。

このセッションでは部屋が号泣や啜り泣きに満ちます。虐待親の下で育っても「一番幸せだった時間」を思い出せない人はいません。自分は思い出せないという人もいるでしょう。そうした記憶は日常を生き辛くするので折り畳まれているからです。だからリマインディングセッションは単に「思い出せ」というのでなく、周到にデザインされた手順を踏むのです。

そうした記憶が日常を生き辛くするのは、願望を持ってしまうからです。願望を持てば期待します。期待すれば期待外れに傷付きます。ならば期待しないのがいい。でも願望を抱いたまま期待しないのは辛い。ならば願望も忘れるのがいい。つまり願望を忘れれば生き辛くなくなる。だから自己防衛機制で「今までで一番幸せだった時間」を忘れてしまうのです。

***********************
(会場挙手)

質問者3(男性):文字に起こすと会話になってない会話でトランスに入ることが僕はよくあって。女の子が「こんな話をしたことはない」となっていき、僕の話でスッキリして疲れて眠るのんだけど、寝て起きたら記憶が消えているということがあるんです。記憶がないから、正気になった彼女は依存する彼氏に戻っていった。そうならずに絆が生まれるようにするには、どうすればよかったのか……。

宮台:生々しいね(笑)。

質問者3(男性):そういう経験が何度かあったけれど、どうずればよかったのか。

宮台:今までにも似た質問をされてきています。その経験から性愛、特に性交することのアドバンテージ(良いところ)がどこにあるのかというと…そうだね、これはある種の条件づけかもしれないけど、性交を反復するたびに、「ほかの人と性交をしてもこの感じにならない」というような、性交で「同じ世界」に入る営みを、反復できるということだと思う。

つまり「セックスしてそういうふうになるのは、この人だけだ」という感覚は、性交独自のアドバンテージでしょう。会話はセックスと違い、反復すると同じモードに飽きますね。つまり無限回の再現性はない。でも性交には無限回の再現性があります。但し、刺激を追求するアッパー系ドラッグ的な性交は、やがて頭打ちしてしまい、無限回の再現性はありません。

「一つのアメーバ」になる享楽を求めるエモーション系ドラッグ的な性交にだけ無限回の再現性があります。刺激を求める性交を「フェチ系」、同じ世界で一つになる享楽を求めるのを「ダイヴ系」と呼びます。フェチ系(SMなど)は自分にとって快楽になるように相手を操縦するのでコントロール系。ダイヴ系は一つになろうとするのでフュージョン系です。

更に踏み込みます。フェチ系は形式に反応するので相手は入替可能。ダイヴ系は形式に還元できないので相手は入替不能。そこに注目すれば、前者は〈祭りのセックス〉、後者は〈愛のセックス〉です。但し、恋愛感情があろうがなかろうが、多くの人は〈ただのセックス〉をします。強度のある性交を求める人だけ〈祭りのセックス〉や〈愛のセックス〉をします。

フェチ系の〈祭りのセックス〉でも変性意識状態に入りますが、コカインや覚醒剤が次第に効かなくなるのと同じで、より強度を増すか、服用間隔をあける必要があります。強度を増す方向に行けばゲスイ犯罪的な営みに至らざるを得ません。絶えず前の刺激の強度と比較するので〈祭りのセックス〉は相対的快楽しか与えず、どこかに「自我の芯」が残ります。

相手が入替可能にならず、刺激耐性がついて弛緩することなく、比較による相対化を免れるのは、〈愛のセックス〉だけ。それは絶対的享楽を与え、かつ絆を作ります。忘れ去られる言葉と違った性交のアドバンテージを求めるのであれば、フェチ系・コントロール系の〈祭りのセックス〉でなく、ダイヴ系・フュージョン系の〈愛のセックス〉が必要になります。

〈愛のセックス〉は三時間でも四時間でも続き、男女とも時間感覚を失います(一時間経ったと思ったら三時間だった)。更に性別非対称性があって、女は言葉が喋れなくなり、言葉が聞こえなくなり、号泣したり過呼吸になったりします。それを見た男は窮極の至福を得ます。僕は「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」と表現します。つまり女本位の性交なのですね。

「女風(女性用風俗)」が広がっています。トー横やパパ活界隈と違い、役所や企業の総合職の女たちが多数利用します。最近はハラスメント告発を怖れて役所や会社で男が誘わなくなったのもあり、三〇台半ばを過ぎて「性愛市場での賞味期限がそろそろ切れる」と自覚し、「性交の享楽を知らずに自分は終わるのは嫌だ」という動機で界隈に近づいてきます。

時代的要因として、①男の側の劣化、②機会が乏しく性交体験が少ないこと、③インターネットでエクスタシス(エクスタシー=忘我)を伴う〈愛のセックス〉の情報を得やすいこと、④「誰がいいセラピストか」についてSNSで女たちが助言し合えることがあります。かくて女風を通じて、性愛市場でどんな性交をする男を探せばいいのかを知るわけですね。

既に女風は「悪貨が良貨を駆逐」しつつあり、「中イキさせます!」みたいなトー横界隈の延長上で出てきたインチキセラピストも目立ちます。良いセラピストにとって「中イキ」などは当たり前で、時間的統覚を失い、喋れなくなり、聞こえなくなり、号泣したり、過呼吸になったり…といった「忘我」体験を目指します。この「忘我」体験はとても貴重です。

ドラッグについて僕は、先ほど話した「効かなくなってきた、もっともっと」的なものを「ゲスのドラッグ」と言い、対照的に一回の体験だけで世界観が変わるものを「神のドラッグ」と言います。優れたセラピストが提供するのは「神のドラッグ」的な体験で、確実に世界観が変わります。ちなみに彼らは「瞬間恋愛」(東ノボル)という想像的恋愛を用います。

東ノボル(故人)がこの言葉を用いたのは、テレクラにカネが絡まなかった三五年前(八〇年代後半)。「この人と今後も付き合えたらどんなに幸せだろう」と想像しながら一度ないし数度切りの逢瀬を体験する営みです。「テレクラで出会ったのだから」と同じく「女風のプロセラピストなのだから」という意識が想像的恋愛に留まることを可能にするのです。

***********************
(会場挙手)

質問者4(男性):先生それは、「体験だけが実在する」ということになるんですか?

宮台:はい。人呼んで「現実」なるものは実在せず、むしろ「体験」だけが実在するという意味で、僕はそれを「内外反転」と呼んでいます。「神のドラッグ」と同じで、「内外反転」を経験すると、今まで「現実」だと思っていたものは一体何だったのだろうと思うようになります。それは性交は性交でも〈愛のセックス〉だけ達成できることに注意してください。

質問者4(男性):今日の副題にもあるんですけれども、存在しない世界であっても体験してしまえば、それは2人の大事な世界になる。そのインテンシティ(強度)が強ければ、言葉を超えてよしと(なるという)。

宮台:はい。今しがたの回答をパラフレーズすると、今まで「現実」だと思っていたものは社会の時空で、それが仮初めに感じられて社会の外の時空に本当にリアルがあるんだと感じられるようになることです。その意味で、正しい性愛の時空は社会の外に存在し、社会の時空と性愛の時空は直和分割されます。社会とは言葉・法・損得が支配する界隈のことです。

正しい性愛の時空は、社会の時空の外にあるので、今まで社会で執ってきた言葉・法・損得が「どうでもいい」と感じられます。相手に彼女や妻がいるとか彼氏や旦那がいるとかが、「どうでもいい」ことになります。だから、正しい性愛の時空を知る者は「不倫炎上」に加わりません。逆に、この手の炎上に手を貸す者は、正しい性愛を知らない可愛相な人です。

質問者4(男性):その強度だけを求めることによって、自分自身が崩れてしまう感情があると思うんですけど。傾倒してしまってバラバラになってしまうというか。

宮台:祝祭と同じく、性愛もまた、社会の時空を仮初めのものと認識させ、社会を「なりすまし」の相で生きさせます。それであれば壊れません。むしろ社会で壊れないための性愛です。貴兄が仰言るのは中毒のこと。あり得ます。正しい性愛は現実逃避の時空なので、戻れなくなる。薬物中毒と同じで「言葉の自動機械」ゆえの過剰な生き辛さが背景にあります。

質問者4(男性):人工的にそう仕向けることもできるんですよね?

宮台:洗脳的なこと?

質問者4(男性):洗脳というか神経的に、そういう快楽のボタンを押すという。

宮台:あー、その話ですか。人工的にできます。僕の得意な中脳midbrainの話です。正しい性交で、相手から今まで感じたことのない「内から湧く力」を引き出せます。中脳は「力」の湧出口で、大脳は「力」をどう使うかの「知恵」を与えます。中脳が大目的を与え、大脳がそれを目的手段系列に分解します。つまり大脳からは「力」は出ないのですね。

質問者4(男性):インテンシティを強くすることができると、それでも良しとするということになると思うんですけど。

宮台:大脳が「社会」、中脳が「社会の外」に対応します。中脳から「力」が湧き、大脳がそれを使う。社会の外から「力」が湧き、社会がそれを使う。宗教学では「力」の湧出口を「聖sacred」、「力」を消費場所を「俗secular」と呼ぶ。社会は、言葉・法・損得の時空で人から「力」を奪うので、社会の外=言外・法外・損得外で「力」を回復するのが祝祭。

インテンシティを強くするのをエンハンスメント(強化)と言います。問題は何を強化するのかです。大脳と中脳のどちらを強化するかです。心の病に処方されるクスリは大脳に作用するケミカルです。脳はケミカルタンクだとするこの五十年の発想に依ります。だからケミカルで大脳の電気信号を強化せよとなります。でも大脳は単に「力」を使う場所にすぎない。

これを六〇年代に主張したのがロハート・ガルブレイズ・ヒース。中脳への脳深部電気刺激で重い統合失調など、様々な精神疾患を劇的に治療します。でも同性愛者を異性に興奮するように「治した」ことから、学園闘争時代に徹底的に批判され、病院や学会から放逐されます。それがこの十年、中脳への脳深部刺激による精神疾患の治癒が再注目されています。

脳がケミカルタンクであるという考え方は、大脳の新皮質と旧皮質にしか注目していない。だから学問的に中立性を欠きます。大脳よりも中脳が肝腎。一般には中脳は「快」を感じる部位です。僕の言い方ではそこに向かおうという「力」が出る部分です。脊髄があり、延髄があり、橋があり、そこから脳に最初に繋がる部分が中脳なので、脳深部とも呼ばれます。

同性愛や異性愛に快を感じるのは、中脳の働きです。大脳みたいな学習的可塑性はありません。但し中脳のどこを刺激してエンハンスするかで従来になかった方向に「力」が出ます。生き辛い人がいるとして、従来は大脳という中脳から見たら「下位の」目的手段系列をケミカルに強化したがる。それをやめて、中脳から湧く「力」を強化するのが脳深部刺激です。

今は研究途上ですが、中脳に座する快の感覚、つまり中脳から出る「力energy」には個体差がありそうです。個体差によって不足する各方面の「力」を脳深部刺激で強化することが脳神経学の最先端研究です。比喩で言えば、言葉による処理を活性化するかわりに言葉の外にある動機づけの「力」を活性化します。同性愛「治療」問題で見た通り、危険を含みます。

この危険がドラッグに勝ることを、月一で発信する『時事キャッチ』という少人数の秘密セッションで話した通りです。中毒になる連中は「社会=言葉の界隈」での生き辛さを抱えるのですが、従来の如く「言葉の処理=社会」を強化するかわりに、「言外の処理=社会の外」を強化しようという発想は、医療措置を思えば危険ですが、論理的には重要な発想です。

医療措置がどこまで許されるのかは「社会=言葉の界隈」で制御する必要があります。中毒になる連中を「言葉の処理=社会」の次元で制御できる場合もありますが、どうにも制御できない場合は「言外の処理=社会の外」の次元を制御せよという話が出て来ます。でもその話をしているのは「社会=言葉の界隈」においてです。そこが問題の本質的な困難ですね。

質問者4(男性):カルヴィニストのような。

宮台:どうして?

質問者4(男性):もうコイツはこうだと決めてしまってるから。

宮台:中脳からどの方向にどれだけ「力」が湧き出すかは、個体ごと決まっています。

質問者4:だからしょうがないか、と。

宮台:しょうがないかどうかは社会の判断です。僕らは大規模定住を生きていて、初期定住と違い、社会が「主」で、社会の外が「従」。僕は性愛ワークショップを通じてこれを「内外反転」をしようとしています。これはイエスの「善きサマリヤ人の喩」に沿う実践です。「損得勘定の自発性=利己的利他から、端的な内発性=利他的利他へ」という方向ですね。

つまり僕はしょうがないとは思いません。但しカルヴィニストと違って思想信条の問題ではない。大規模定住社会で生きなければいけない現実、しかも多くの方がその現実が苦しくて堪らないという現実が、僕らに要求してくる手段的知恵です。その知恵には「もっと社会に適応しろ=大脳派」と「適応せずになりすませ=中脳派」の二方向が論理的にあるのです。

質問者4(男性):ちょっとピュアに考えているのかもしれません。

宮台:むしろピュアに考えてほしい。完全にピュアになることは社会の外に出ることです。社会の外から時々戻って、社会をなりすまして生きるというのが、ピュアさを失わない論理的に唯一の方法じゃないですか。このピュアさを失えば、残尿感のような不全感を抱えながら、気がつくと死んでいる。「もっと社会に適応しろ=大脳派」は現実的にあり得ません。

質問者4(男性):それは事実ですよね。

宮台:変えようがない事実です。

質問者4(男性):じゃあ、行ったり来たり、行ったり来たりしていく。

宮台:それしかないです。それがキリスト教的な、正確に言えばイエス論の思考です。

***********************
(会場挙手)

質問者5(男性):言葉の機能が肥大化していって、現実や身体性を食い散らかしていくというのが僕の理解です。ある種、言葉の機能を最低限まで落とさなきゃいけないと考えてるんですが。

宮台:今回もそういう話をしました。

質問者5(男性):じゃあ言葉や言語が必要となるのはどうしてなのか、ここで問い返してみたいなと思います。今、暫定的に自分の中で出した回答は、最低限のコミュニケーションだったり、法律を作ったりという2点に落ちるのかなと思っているんですが、もしそれ以外にお考えがあればうかがってみたいです。

宮台:「生きていくためには」「法律を作るためには」という物言いは間違いではありませんが、少し具体的すぎます。もう少し抽象度を上げて考える必要があります。喋ってみて、足りなかったら黒板を使って書きましょう。ご存知でしょうが、定住以前の遊動段階には、法や法生活(法に従う生活形式)もありませんでした。なぜか。不要だったからです。

遊動段階はどんな生活形式だったか。ダンバー数(150人以上とは意味のある人間関係を結べないとする進化心理学者ダンバーの理論)50~150の範囲内でフローティング(遊動)しながら狩猟採集していました。そこに必要なのは法ではなく「生存戦略と仲間意識」だった。四万年前から言語は使っていますが、他の猿など多くの哺乳類と全く同じでした。

それが1万年前から順次定住化した。狩猟採集より高い農業生産性で150人までの規模のバンド(小集団)が幾つか合わさってクラン(小集団の集合)ができます。昔は農耕発見によるとして農業革命と呼ばれたのが、実証的に覆され、遙か以前から農耕していたのが、決断によって定住したので定住革命と呼ばれます。決断を要した理由は、法生活の不自由です。

確かに定住を支えたのは農耕生産力。その農耕には①集団行動の規律と、②種播から収穫までの計画と、③収穫物の保全・配分・継承を巡る規則と紛争処理が要る。だから「言葉」を使ってペナルティを伴う「法」で規律することで個体が「損得」で従うよう促す。ペナルティは集団の意志表出です。法生活で「言葉・法・損得」が支配する「社会」が生まれました。

こうして「定住民」が生まれると同時に、法生活の不自由を嫌って定住を拒絶する「非定住民」が出て来ます。定住前の遊動民と違って定住を「意識的に」拒絶するので、定住民によって差別されます。他方、定住民にとって法生活は不自由で、続けると「力」を失うので、「力」を回復するための定期的に祝祭し、祝祭で「力」を保全する非定住民が召喚されます。

祝祭は、[ケ(気=力)→ケガレ(気枯れ)→ハレ(晴れ)]の循環に於けるハレ=「力」の充電です。力の湧出口が「聖」、力を使い尽くす場が「俗」だと観念されます。だから祝祭も、召還される被差別民も「聖」です。但し祝祭後に被差別民は追放されます。それで分かるのは、「言葉・法・損得」が支配する「社会」が、元々生き辛いものだということです。

全成員のリアル血縁を記憶する遊動段階のバンドと違って、初期定住のクランは虚構(言い伝え)の共有を含んだ疑似血縁です。典型的なのが、全員が同じ母から繋がっているとする「原母」幻想。これは一つの同じ「力」の湧出口から全員が「力」を得ているという観念。母から娘(次世代の母)へと「力」が継がれていくので、「母系社会」になります。

定住が生産力上昇でストックを蓄えると、所有とそれを(暴力的に)守る所有者としての父が出て来ます。すると原母から湧いて母から母へと継承された「力」を父が使う「母系父権社会」になります。疑似血縁を維持し難い規模に社会が拡大すると一部が「父系父権社会」になります。いずれにせよ「系」は聖=力energyを、「権」は俗=権力powerを表します。

遊動段階からストックが僅かな初期定住まで、全てを皆で分けるので所有がありません。但し遊動段階は皆がリアル血縁を弁えますが、初期定住は疑似血縁(トーテミズム)が始まります。規模拡大で母系父権社会になっても「顔を知らぬ者」は社会にいません。更なる規模拡大で父系父権社会になると社会に「顔を知らぬ者」が含まれ、疑似血縁幻想が消えます。

御質問の言語についてです。サピエンスに加えてネアンデルタールやデニソワを含むホモ属が歌を獲得したのが7万年前。4万年前に歌の遺伝子FOX-P2の故障からストリームがぶつ切りになってサピエンスだけが歌と区別される言葉を獲得しました。悲しい歌を聴けば悲しくなるけど、悲しいという言葉を聞いても悲しくならない。感染の有無が大きな違いです。

この違いもあって言葉には情報を詰め込めます。四万年前からサピエンスだけが旧石器から新石器段階に飛躍します。集団ハンティングも組織化がヨリ進んだでしょう。歌と区別される言葉の獲得がサピエンスだけに氷河期を生き延びさせたのです。ネアンデルタールやデニソワは最終段階でサピエンスと交雑してサピエンスの中に遺伝子を残して今日に至ります。

注意点を二つ。第一に、言葉に関わる遺伝子変異や先の交雑による遺伝子変異を除けばサピエンスの遺伝子は過去二〇万年間ほぼ不変であること。第二に、四万年前に歌と区別された言葉を獲得した後、文明化(大規模定住化)した三千年前に言葉の使い方が大きく変わったこと。詩的言語poetic-languageから散文言語prosely-languageへの重心の移動です。

これは音声言語とは別に、文明を支える行政官僚に書記言語が拡がったことに依ります。音声言語は声が届く近さを前提にリズムやピッチやトーンや抑揚や韻律や挙措などコンテクストに補われて伝わります。それゆえ「同じ世界」を生きていることを前提に、換喩(シニフィアンの同一性による接続)や隠喩(シニフィエの同一性による接続)が優位になります。

こうした音声言語は広域統治に向きません。他方、書記言語は上に挙げた全てのコンテクストを無関連化するロゴス(ロジック)を発展させます。文脈に依存しないので広域統治を可能にしました。二千六百年前に記された旧約聖書では神の言葉が大切にされますが(はじめ言葉ありき[ヨハネ福音書])、この意味論は書記言語の発達抜きにはあり得ないものです。

歌と区別された言葉の誕生は四万年前。それ以降、一万年前からの定住開始まで、ヒトの生活形式は、言葉以前(例えば七万年前以降)と基本的に変わらない形を保ちます。定住以降も、三千年前ほど前から広域統治(文明)の拡散まで、「同じ世界」を生きる者にだけ伝わる文脈依存的な音声言語の用法が維持されます。それが変わったのが三千年前ということ。

書記言語は「記憶の外部化」です。記憶には直前の自らの反応が含まれるから「反応の外部化」でもある。それで外部化された反応への反応が可能になります。かくして反応への反応への反応への…の類の、反射reflexと区別された「再帰的反応reflective reaction」が可能になった。これが「意識」の誕生だとしたのが心理学者ジュリアン・ジェインズです。

一万年前からの定住がもたらした変化は、言葉の用法よりも、「力」の湧出口たる聖の時空と「力」を消費する俗の時空の分離にある。折口信夫は「『力』は定住社会の外からやって来る」と考え、外から来た「力」を蓄える袋としての天皇や「力」をチャージする営みとしての新嘗祭と大嘗祭を考えました。彼にはFloating-stage(遊動段階)への憧れがあります。

兄貴分の柳田國男は折口と似た志向でしたが、農政官僚だった彼は途中から「統治の視座」に立って「天皇の力は外からくる」という考えを危険だと考え、農耕社会の中で体験できる「土から稲が生えて育つ『力』」が天皇(が蓄える力)の起源だとするようになります。詩人を愛でていた初期プラトンから哲人を愛でる後期プラトンへの変化と同型的なものです。

広域統治の視座から見て、権力を担保する言葉が局所的文脈で屈曲したり消尽したりしないことが大切です。その点、韻律や挙措や隠喩や換喩など近接的proximitに「力」を惹起する音声言語の技芸者=詩人は危険です。むしろ書記言語を眼光紙背に徹して文脈非依存的なイデア(抽象原理)を読み抜く技芸者=哲人こそ必要。これがプラトンの変化の背景です。

これは統治の視座の起源を示します。彼の変化はアテネがスパルタに負けたペロポネソス戦争が契機です。人口が二〇万人超に膨れ、貨幣経済で質貸しする奴隷や甲冑や武器を質入れする市民が出るなど階層分化が進み、市民の共通感覚が失われます。共通感覚を前提にした詩人へのミメーシス(感染)ではなく、それを前提にしない哲人の統治が必要になるのです。

プラトンの変化や恐らくそれを踏まえた柳田の変化を転向conversionと呼ぶ向きもあります。でも実態は封印sealでしょう。「力」への感染を好んでいたとしても、社会の複雑化ゆえに、もはやそれでは統治ができない。となれば言葉の用法を、音声言語の素朴な表出explosion優位から書記言語の戦略的な表現expression優位に転換せざるを得ないのです。

こうした法と言葉の関係は複雑に見えます。でも単純です。狭域の掟ではもたなくなったから、広域の法が重要になった。だから狭域の音声言語=表出より、広域の書記言語=表現が重要になった。とはいえ祝祭では狭域の音声言語(詩的言語)が復権した。それが祝祭が消え、僕らは広域の統治戦略に過ぎない広域の書記言語(ロゴス)に閉ざされるようになった。

一言で纏めるとそんな感じですかね。今は「祝祭」の項に「性愛」を代入しても同じ命題が成り立ちます。それにつけても、性愛の現場などで、男性よりもロゴスに閉ざされていないはずの女性の方の質問が、全然ないんですが…。ではクォータ制ではないですが女性の質問を求めてコールドコールします。そこにスーパー常連の方々がいらっしゃいます(笑)。

***********************

質問者6(女性):中学校に入る頃、陰キャラ・陽キャラ、リア充・非リア充といった言葉が流行り出して。小学校の頃は、陰キャラ・陽キャラと言われる人も同じ世界に入って楽しんでいたのに、年齢が上がるにつれ言葉の支配が強まっていくと感じました。先日成人式で、所謂不良と言われる同級生に会った時、心の中で壁ができていたと感じ、自分も言葉の支配を受けていると思ったんですが。学校にはプロレタリアの再生産工場の役目があるので支配は必要だと思うのだけれど、どうにかして破壊する手段はないのか。

宮台:(笑)。手段はあります。それをずっと話してきました。

質問者6(女性):自分はその支配に呑み込まれているので、自分に対して、あるいはそういう状態にある人に何ができるのか。

宮台:今の段階のあなたには何もできないかもしれない。でも心身の性能を上げれば何かできると思います。だから皆さんに心身の性能を上げてもらうためにこのセッションをしています。「個体発生は系統発生を模倣する」というヘッケルの言葉を高校で習ったはず。受精卵が胎児になる発生過程で、エラや尻尾が発生しては失われ…という進化過程を反復します。

発生の最終段階で雌型をプロトタイプとして雄型が分化します。「アダムからイヴが生まれる」の逆だからイヴ原則と言います。Y遺伝子からの遺伝子情報が正しく処理されて雄型に分化し、その後も性腺(ウォルフ管)からのホルモン情報が正しく処理されて雄型に分化し…という具合に、追加的情報処理によって辛うじて雌型から雄型への分化が成功します。

だからヒトの着床段階では雄:雌は144:100なのが、出産段階では104:100。これは雄型に分化するための追加的情報処理が失敗するからです。このイヴ原則は出生後も貫徹すると考えられます。だから、いつの時代もどこの文化圏でも男より女の平均寿命が相当長い。「男であることは女であることよりも無理がある(不自然だ)」というのがイヴ原則です。

ヘッケル原則やイヴ原則は出生後も貫徹すると考えられます。例えば幼児は法に従えない。内から湧く力で自由に行動する。でもやがて法内へと閉ざされる。同じく、幼児は外遊びが好きだ。外遊びを通じて男女の別なく母語が違っても仲良くなる。でもやがてカテゴリーや言葉へと閉ざされる。これは「遊動から定住を経て大規模定住へ」という流れの反復です。

大人の男と女を比べると、女の方が何事につけ変性意識状態に入り易い。つまり火事場の馬鹿力が出易い。性交においても女の方が圧倒的にアルファー派が出易い。つまりエクスタシー状態になり易い。端的に言えば、女の方が「言葉の外」の出易く、「力」が内から湧き易い。これは、出産と育児に関わる遺伝子的傾向として、進化生物学に達成されたものです。

「言葉と法と損得」の界隈=「社会」を生きる営みと、「言外と法外と損得外」の界隈=「社会の外」を生きる営みを、並行させる能力は──前者へと閉ざされずに後者に開かれる能力は──統計分布として「大人より子供の方が上」かつ「男より女の方が上」です。かかる事実を義務教育の段階で子供に周知させる必要がある。そう、「女子供」の方が優位なのです。

つまり、社会と人格の持続可能性の視座からすると「大人の男は、女子供より遙かに劣る」ということです。かつて村上龍が「すべての男は消耗品である」と自らのエッセイに題しましたが、その通りなのです。だから、子供とりわけ男児については、いわゆる「大人の男」にならないように育てましょう。あなたも心身の性能を上げてこの課題に取り組みましょう。

***********************

「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」
バタイユの『呪われた部分』の今日的解釈

阪田:僕からもいいですか。「性愛以外でなんとかならないのか?」という最後の質問を聞いていて、僕らもキャンプとかやっていて、遊動段階にいくのはめちゃくちゃ難しいというか、不可能ですね。カヤックに乗ったり山へ入った時に、言葉の世界から出ていってしまうと、もう帰ってこれない状態になるので、すごく大変なことなんです。

でもその世界の近くで、例えば知床半島を回るような「本当の人たち」は、「そっち側」にかなり近い状態です。お酒を飲んだりしながらそういう世界に入っていって、ぎりぎりのところで言葉の世界に戻ってきてなんとか生きているという印象です。

もうひとつ、僕はさっき恩師の話をしましたけれど(プレトーク)、武道でいうと、性愛的なもの以外で「気」を出そうとするには、めちゃくちゃ鍛錬が必要です。一番分かりやすい気は「殺気」です。人は、人を殺したい時という時に「気」が出ると。その次に恋愛だと、恩師は言ってました。(訓練していない)一般人がそれ以外では「気」が出ないと。

さっきの中脳(の話)もそう。パワーみたいなものだと思いますので、自分で開発していくのはすごく難しいことだと思います。その意味では、「性愛の意味を性愛を越えて理解する」という宮台さんのやり方しかない。乗り越えようとするには、性愛はたぶん一番簡単なことだと思います。こっちが「好きだな」と思っていたら(そういう「気」が)なんとなく出ているし、相手も「そうだな」と思えば、そういうものを受け取っている。

バタイユという人が書いた『エロティシズム』の記述が、僕にとってはすごく分かりやすくて、それは「波が寄せては返す時のようなもの」で、必ず男が起点だとバタイユは言っていますね。男から波が出ていって、女の人はそれを受け、男に返し、波が消えていくようにお互いが主体を消失して、「溶解」と言っていますが、溶ける状態になっていくんだということで、僕は言葉で言えば、バタイユが言っていることがすごく分かりやすいと思います。

主体がなくなるってすごくイメージしづらいと思うんですね。おそらく主体がある状態で、主体がなくなっているのをイメージしてるんじゃないかなと。

アフォーダンスも「あるものに引き寄せられる」というぐらいで、おそらくイメージしてると思うんですが「あらゆるものにアフォードされ合っている」という状態は、そういう世界体験ではなくて、主体の消失なわけですから、言葉の世界ではなかなか説明しづらい世界体験がそこでは起こっているんです。そう考えると「性愛以外になんとかならないですか」って皆さん聞くんですが、性愛が一番簡単。

宮台:仰言るように、面倒臭く見えても、性愛が最短の近道です。他はとてつもないコストがかかるし、道筋を簡単につけられません。そういう理由で性愛ワークショップをしてきました。だから僕の目的は、性愛自体ではなく、性愛を享楽できる身体性を獲得すること「を通じて」、言外・法外・損得外つまり「社会の外」に開かれた身体性を獲得することです。

阪田:こういうふうに丁寧に性愛という言葉を使いながら、波が寄せては返すということを含めて考えると、2人の世界に入る性愛が最短の道だし、現代人にとって一番得やすいパワーだということになります。

シュタイナーは、思考によってまずそれに到達しろと言ってますし、昔の人にとっては「それは(身体的)訓練だ」とシュタイナーが言っていますね。とにかく身体から抜け出すために、身体を酷使する修行をたくさんやる。巫女さんとかも、ずっとジャンプさせられたと言います。一日中ずっとジャンプさせられて、あるものが身体から抜けた時に啓示が入ってくると。

身体を酷使することによって、言葉じゃない世界に到達する。日本の修験道や体育の源流になったということで言えば、ずっと山の中を歩いていくことによって、山には「御胎内」という言葉があるくらいなので、母のお腹の中に入って、何回も生まれ変わることによって、体から、言葉から抜けていく。そういう修行で到達した領域だと思います。

遊動民には戻れないですし、そこまでできないので、現代人にはやっぱり難しいですね。そう考えると、頭である程度理解して「性愛の時空」にに入っていくということが一番現実的なプランであると思います。

宮台:バタイユは「呪われた部分」という言葉で知られます。「呪われた部分」とは「言葉の外」を指します。それ以降様々な呼び方がされています。エドモンド・リーチは「リミナリティ(境界状態)」と言います。ジャック・ラカンは、それに反応する能力の側を「象徴界未然」と言います。象徴界(言葉の世界)が「呪われた部分」をキャンセルするからです。

阪田さんが紹介してくれたバタイユの「寄せては引く波」のイメージは『魔法使いの弟子』という数十ページの本に書かれます。今日ではもっと詳細化できます。前に「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」と言いました。女はいつ飛ぶか。翼を拡げてもいいよと男が促せた時。①翼を拡げていいよと男が促し、②女が翼を拡げて飛び、③女の翼を借りて男が飛ぶのです。

今日の劣化を前提とすれば、男には①翼を拡げてもいいと促す営みと、②女に翼を拡げて飛ばせる営みと、③女の翼を借りて飛ぶ営みの、全てにおいて訓練が必要です。男が訓練を遂げれば、女は簡単に「寄せては引く波」のフローに乗れます。女は容易に「社会の外」に出られるのに、男が出られないところに問題があります。女は稀少な男を探さねばなりません。

なぜ最初の引き金が男の側にあるのか。言葉・法・損得に閉ざされた「社会」で権力のイニシアチブを持つのが男だからです。男一般が女一般を閉じ込めている以上、個別の性愛において男の責任で女が「社会の外」に出ることを全面的に受け容れる必要があります。だから「俺に限っては全拘束具を脱いでいい」と最初のシグナルを出すのが男の役割になるのです。

①=男から女に寄せる波(男からのcall)。②=女から男に寄せる波(女からのresponse=男へのcall)。③=男から女に寄せる波(男からのresponse=女へのcall)。それで初めて「同じ世界」で「一つのアメーバ」になります。というと男女対称に聞こえますが、どの段階でも通奏低音のように男がcallし続けねばならないことに注意する必要があります。

既に話した「力」の概念を使ってパラフレーズ出来ます。「力」の湧出口が「聖」、それを使う時空が「俗」でした。僕は全ての子の出産に立ち会いましたが、生まれた赤子が高く掲げられた時、スポットライトが当たったかの如き「聖」を見ました。女が性交で自失して過呼吸・号泣・見えない・聞こえない状態になったのを見た時、全く同種の「聖」を見ます。

話したように、初期定住では多くのトーテミズム(疑似血縁)がオリジナルマザー(原母)の概念を持ちます。つまり「力」の湧出口が女だとします。これは産む営みに関わる「聖」に由来するとされがちですが、僕はそれに加えて性交で飛ぶ営みに関わる「聖」にも由来すると考えます。なぜなら、両方とも、全ての男を畏怖させ、「力」を体験させるからです。

八〇年代の新東宝時代から作品を観てきたAV監督代々木忠が示して来たのは「全ての女が畏怖すべき対象だ」ということです。彼の初期作品ではカップルや夫婦が登場し、彼氏や夫に手を繋がれた彼女や妻が、監督と男優の協働で完全にトランスして飛ぶのを、彼氏や夫が目撃して平伏して号泣する姿が繰り返し描かれます。僕の経験ではこれは完全な真実です。

何度か代々木監督とトークをしました。彼はアウェアネストレーニングの極めて高度な技術者です。村西透と違って自ら性交せず、男優と性交する妻や彼女の横で短い言葉を巧みに使ってディフェンスラインを見事に融解させます。この状態を目標として九〇年代前半から半ばまで女たちが作品鑑賞会を各所で開いていた所以です。僕もそれを目標として来ました。

何を言っているのか分かりにくいですか。イメージしてみて下さい。号泣して飛ぶ妻や彼女を見て、夫や彼氏が感激の余り泣く。妻や彼女をよく知っているつもりだったけど、こんなにも神々しい姿を見せるのかと。出産に立ち会って、出て来た胎児を見た夫や彼氏が感激の余り泣くのと、全く同じ光景です。僕は実際に経験してきたけど本当に全く同じなのです。

実は、ナンパ師だった僕は「百人以上見てきたけどそんな女はいねーよ。これは演出だよ」と思っていました。でも九〇年代半ばに彼が出した本『プラトニック・アニマル』で目が覚めた。何をしようとしているのか明白に書かれていたからです。「俺は何をして来たのだ」ということで鬱化の契機の一つになります。鬱明けしてから自分にも体験が開かれました。

彼の目標は当初は女の解放。やがて女の解放通じた男の解放にシフトします。加藤鷹をはじめ代々木組の男優には瞬間恋愛的な〈愛のセックス〉の凄い力があります。でも「女が飛ぶことにで自分も飛ぶ」という所まではいかなかった。それでドライオーガズム(前立腺マッサージによる射精抜きのエクスタシー)を体験させ、女が何を体験しているのか体験させた。

記録されてる加藤鷹の言葉に「自分たちがやってきたことで女がどう感じているのか初めて分かった」というのがあります。つまりこれは男が女に「なりきる」実践です。言葉・法・損得に閉ざされた「社会」に適応し過ぎた僕らは「なりきる」能力を失っている。フュージョンできずコントロールの芯が残る。それが分かった僕は、正しい訓練に乗り出せました。

女から「力」が湧き、男がそれに与らせていただく。「聖なる女」と「俗なる男」。これは神話的な過去の図式ではなく、現実的な根拠があることを理解し、その上で「女の翼で男が飛ぶこと」を目指す実践に乗り出す。それで言外・法外・損得外の「社会の外」に出る絶対の享楽に身を委ねること。すると皆さんも「社会」を「なりすまし」で生きられるようになる。

イエスは言外・法外・損得外の「社会の外」に出ることを明確に推奨しました。その意味を今申し上げたような経路「でも」、クオリア(体験質)として自らのものに出来ます。それにしても、神学についての質問が一つも出て来ませんね。

(会場笑)

***********************

宮台:創世記第一章は「光あれ」という神の言葉で始まります。「光と闇」を言葉で分けたのです。だからヨハネ福音書は「はじめに(神の)言葉ありき」と記す。すると多くの方は「世界は言葉で出来ている」と誤解する。論理的に考えましょう。まず、言葉以前に神が在った。次に、それは神の言葉だから、絶対の神に対して相対の人にはよく理解できない。

つまり「所詮は人の言葉」にはいつも外がある。神論の出発点はそこです。イエス論の出発点でもある。イエスはこの神論を理解していました。だから所詮は人(ラビ)が作った613のミツワー(戒律)に従えば救われるなどあり得ない。つまり戒律に従う必要はない。人の問題は、今の話を含めて、単なる相対の善悪を絶対の善悪だと履き違えるところにある。

そのことを示すのが創世記第二章の失楽園譚(アダムとイヴ)。神は自らの似姿として人を作った。知恵の実を食べた人は神を真似て善悪判断します。知恵の実を食べるよう唆した蛇は神の意志です。だから神は敢えて不完全な善悪判断しか出来ない人を作った。文字通りの似姿。本物とは違う。なぜそんな面倒なことをしたか。ベネディクト一六世を参考にします。

退屈だったからでしょう。論理的に考えます。完全な神が完全な世界を創造する。これはトートロジー。全てが読めるので意味がない。ゆえにそこに不完全な人を置いた。不完全な人の行動は神にも読めない。全能なのに読めないって? 違う。全能だから、全能でも読めない存在を作れた。だから全能の神はハラハラしながら人の不完全な振舞いを見ているのです。

これで完全な神が創造した世界に悪がある理由も理解できます。ヘーゲル『精神現象学』が記すような「最終的な善に至るための踏み石としての悪」という意味での神の計画(主知主義の理解)ではありません。完全な世界が退屈だから、神が意図して、不完全な人を置くことで不完全な世界を作ったのです。その意味で意図された不完全性です(主意主義の理解)。

所詮は「人の言葉」へと閉ざされた不完全な人に、「神の言葉」がどれだけ理解できるか。これも神論の主題です。大して理解できない。先に話した論理的結論です。だから突然の啓示revelationがあり回心conversionがある。啓示は言葉にできない。だから回心する。また突然の悲劇による召命vocationがある。これも言葉にできない。だから応えようとする。

どちらもcallがあってresponseする。このcallは「力」を与えられることです。プラグマティストが言う通り、認識と関心は違い、言葉と動機付けは違います。言葉による認識は「力」を与えません。動機付けによる関心は「力」を与えられて生じるものです。どうして啓示や召命が「人の言葉」に還元できないか。理由は「力」を与えられることだからです。

その意味でcallingは「人の言葉」の外側から突然襲ってくるものです。言葉・法・損得の内側の時空に閉ざされていた人間たちにとっては「呪われた部分」の露出です。言葉の不完全さに──シニフィエの不足に──気付いたがゆえに「やってくる」(郡司ペギオ幸夫)未規定な何かです。その意味で「やってくる」未規定な「力」が「神の言葉」だと言えます。

では、「神の言葉」を「人の言葉」にパラフレーズしようとする神学は何をしているのか。このパラフレーズは普通のものではなくアナロギア(アナロジー)です。人に何らかの「力」を与える特殊な「人の言葉」で仄めかす営みです。例えば「父なる神」という物言いです。この言葉が発せられた当時の父親が何をしていたのかの研究が必要になります。

トーラーには父が犯罪者でも子は守ろうとすると書かれています。そんな父を前にすれば子は何らからの「力」を得ます。糞フェミの中には「父なる神」の文言を「相撲と同じでジェンダー差別」とホザく頓馬がいます。そうじゃなく、自らが犯罪者であれ子を守ろうとする父を前にした時に、子が与えられる「力」に似た「力」を神は与えると言っているのです。

だから、今の日本にありがちな、何かがあれば家族を置いて逃げるようなヘタレ父を想像しないでほしい。「父なる神? えー、ヘタレじゃん」。それは糞フェミと同じ捉え方です。そうじゃない。当時の父親が「そういう存在」として捉えられていたのです。むろんそれは当時の規範です。でも規範に逆らって生きられない社会だったことを想像する必要があります。

実はアナロギアには行き止まりがありません。「父ってどういうこと?」が何となく分かっても、「子を守るってどういうこと?」などと未規定なものに更に開かれていきます。つまり「神の言葉」の探求には僕らが考えるような答えはない。つまり最終到達点はない。最終到達点があると思うことは神への冒涜で、「人の言葉」を「神の言葉」と同置する不遜です。

(人の)言葉が規定可能性だとすると、規定可能な時空は限られていて、規定不可能な時空に浮かぶ島みたいなものです。こうした記述は社会システム理論家ニクラス・ルーマンの用法です。球体に羽毛や毛を撫で付けようとすると必ずツムジのような特異点が生まれます。未規定なものを規定しようとする営みが出会う未規定性の比喩として、彼が語ることです。

文法では「神は父だ」は隠喩で「神は父のようだ」は直喩ですが、それに関係なく全てのアナロギアは隠喩的です。「神は父のようだ」と言っても「何が父のようなのか」というシニフィエはいつも未規定なものに開かれている。どこまでも未規定でありながら、何がしかの「力」が得られるような詩人の言葉です。これで神学的思考の形式が分かったでしょうか。

イエスの話はいつも喩(例え話)です。今申し上げたことを弁えていたからでしょう。そんなイエスとは何者なのか。父と子と聖霊の「子(イエス)」とは何か。信仰がない人に対して言えば、イエスが神かどうかは横に置いて、取り敢えずは「人」です。でもどうも普通の人とは様子が違ったらしい。一体どう様子が違ったんだろう。これが「史的イエス論」。

エチエンヌ・トロクメと弟子の田川建三と加藤隆が有名です。僕は中学で田川『イエスという男』を読みました。歴史学の手法でガリラヤからエルサレムへのイエスの行程が当時どんな状況で、人々がどんな苦しみに喘いでいたのかを突き止めた上で、四福音書の各テクストを歴史的文脈を補って、イエスの発言の聞き語りに含まれる真実を明らかにする神学です。

但し一部にまじめくさった誤解があるようですが、目的はイエスの発言や行動を実証的に明らかにすることではない。神学にとってはそれは無意味です。意味があるのは、当時の人々のクオリア(体験質)において「イエスがどう現れたのか」を、イエスが用いたアナロギアを手掛かりに自らのクオリアとして出来る限り再現すること。僕はそれをしてきました。

その上で「僕がこう思う」というサフィックス抜きに喋れないけど、イエスは初期ギリシア的です。例えば、イエスのマグダラのマリアの逸話における「613のミツワーを守れば救われるというのか。ならば守れていると思うものは石を投げていい」という物言いによって周囲に惹起した「後ろめたさ」を追体験する経験は、人を初期ギリシアへと連れていきます。

サフィックス付きを続けると、イエスによれば、「神の言葉」はモーセの十戒だけなのに、パリサイ派のラビ(聖職者)という「たかが人」が613の戒律を捏造した。ヘブライ語の十戒は命令(規範)でなく生活形式の陳述(事実)。だから自分が救われたい利己主義者(利己的利他の輩)にとって条件プログラムとして未規定。それゆえ人が戒律を捏造したのです。

自分が救われたいがゆえに条件プログラム(戒律)に這いつくばる輩は、初期ギリシャ的には「奴隷」。条件プログラムがどうあれ「内から湧く力」によって前に進む者が「英雄」。戒律に書いてないという理由で瀕死の重症者の横を通り過ぎたラビやレビ人(祭式族)を尻目に、思わず駆け寄って助けたサマリア人(被差別族)を賞揚するのは初期ギリシャ的です。

福音書が当時のギリシャ広域標準語で書かれていたので、聞き書きの著者は初期ギリシャ的な価値を知っていたはず。だからその影響だとする向きがある一方、利己的利他と利他的利他(端的利他)の識別は論理的問題だから関係ないとする向きもあります。いずれにせよ、ソレをしないと悪いことが起こるからソレをするという構えは、イエス的にはさもしい。

さもしいパリサイ派には「戒律を守ったのに(民族が)救われない」という「動かない神」の問題が生じます。だからイエスは「神はいつもそばにいる」と言う。それを信じぬ者には奇蹟を行い、「私の力ならぬ神の力だ」と証拠を示し、畏怖を体験させた。その先は「戒律を守れば救う神」ならぬ「そばで見てくれていることで『力』を与える神」になります。

イエスはトーラーに於ける神論の論理をよく理解していました。つまり神は、所詮有限の人が理解する「神の言葉」の中にはいない。むしろその外におられる。現に「見る神」が与える「力」は、所詮有限の人が理解する言葉の中にはない。むろんミツワーは法。宗教法と世俗法の区別はない。戒律を破れば犯罪者。現に祭壇に進入して酒盛りをするのは犯罪です。

お分かりですね。彼は敢えて犯罪を為すことで「神はそんなことで裁かぬ」という事実を、さもしい条件プログラムの外へと人々が「開かれる」ために体験させたのです。これらを体験させた上で問います。今あなた方は奇蹟を通じて神にコールされた。そこから先はあなた方の問題だ。コールにレスポンスしてもしなくてもいい。そう。これが召命のロジックです。

マックス・ウェーバーが語る通り、キリスト教文化圏のレスポンシビリティ(責任)の概念はそこから来ます。何らかの出来事を通じて唐突にコールされる。コールされてどうレスポンスするかの選択を迫られる。選択次第で必ずアウトカム(結果)が分岐する。つまりレスポンス次第で異なるアウトカムが生じる。これがレスポンシビリティ=(応答)責任です。

むろん日本人はこれが理解できない。だから日本では自己責任という概念が「自業自得」という意味で用いられる。事後的に自分でケツを拭けと。そうでなく責任は事前的です。つまりコールされてレスポンシビリティ(応答可能性)が生じて自己決定する。だから欧州では自己決定の否定的結果を公的に埋め合わせ、再び自己責任での自己決定を促すわけですね。

但しイエス的にはそこに僕らかが言う主体的選択はありません。確かに選択を迫られています。でもパウロのコンバージョン(回心)を考えても分かる通り、それでユダヤ教徒からキリスト教徒に転向したパウロには、選ぶ余地がなかった。アリストテレス的に言えばパトス(降ってきたもの)に動かされたのです。これを強調したのがマイケル・サンデルでした。

近代憲法には「信仰の自由」の概念があります。1648年のウェストファリア条約の、三十年戦争を終結させるための「諸侯の新教・旧教の選択自由」がルーツです。それがナポレオン戦争以降の国民国家化で「国民の信仰の選択自由」にトランスフォームされたのですが、サンデルはその概念の罠に気をつけろと言います。実は欧米人でも間違いやすいからです。

「仏教よりキリスト教にご利益がありそうだからクリスチャン」という選択は、信仰の前提たる回心と矛盾します。「社会より宗教が小さく」なるからです。無論だからこそウェストファリア条約で戦争終結した。でも「社会より宗教が大きく」なければ信仰には値しない。「社会より宗教が大きい」とは、「社会」での選択ならぬ「社会の外」の訪れによる導きです。

これは「力」の体験です。四冊の映画批評本で「世界からの訪れ」と呼びました。太宰治『走れメロス』を見ます。残虐なディオニウス王に意見したメロスは処刑を言い渡される。親友セレヌンティウスを人質に置き、3日間の猶予を得て妹の結婚式を済ませ、城へ向かって走り出したものの肉体的限界で倒れて気絶。そこに「せせらぎ」の音が聞こえてきます。

それで奇蹟の力を得たメロスはボロボロになって城に着き…。「せせらぎ」は世界からの訪れです。奇蹟の美しい描写です。神学の思考では訪れを媒介したエーテルが聖霊です。訪れの「源泉・エーテル・到達点」を一体とするのが三位一体。神が聖霊に媒介されてイエスに訪れた。イエスが聖霊に媒介されて人に訪れた。その繫がりで神(の奇蹟)が人に訪れた。

「父(神)と子(イエス)と聖霊」が一体となって「力」が人に訪れた。それを僕らが確認して「よしcertainly」とする祈りが「父と子と聖霊の御名によってアーメン」。カトリックでは同型的に、イエスが聖霊に媒介されて使徒に訪れた(イエスの復活)、使徒が聖霊に媒介されて一群の人(聖人)に訪れた。聖人が聖霊に媒介されて僕らに訪れたと考えます。

カトリックは「父と子と聖霊」が一体となって「力」が人に訪れるこうした複数のルートを「教会」という名で肯定します。だから、僕が受け渡されたのなら、僕も人に同じように受け渡し、受け渡された人も僕と同じように人に受け渡していくことを僕が望むという思考になります。それが「僕が皆を裏切らないように、どうか見ていてください」という祈りです。

そしてカトリックにおける救済とは、自分が天国に召されることではなく、俗世で皆を裏切らないでいられる「力」が「見る神」から与えられる体験を指します。つまり救済とは「奇蹟の力が働き続けている」という持続で、「天に召される」という到達点ではない。福音宣教しているのではなく(笑)、「社会より宗教が大きい」を体験質ベースで説明しています。

話したのは、信仰を前提とした神学ではなく、神学の社会学的記述です。そこにはミクロな雨紋の如き「力」のダイナミズムがあることを掴んで貰う目的です。こうした「力」のリーズニングで、イエスが初期ギリシア的な形で「言葉の外」を擁護したのが分かります。彼ほど言葉の内外の区別に敏感な者はユダヤ教史にいません(イエスの自認はユダヤ教徒)。

イエスは、まさに初期ギリシアが愛でたように、条件プログラムの外で、つまり言葉の外で「力」を受け、「力」を伝える存在だったということです。このあたり、信仰のない皆さん方も理解できたでしょう。その意味で「神論においてもイエス論においても」言葉に閉ざされるのはダメ。だから僕らも、「力」を受け、「力」を伝えることが呼び掛けられています。

***********************
質問者7(男性):社会の内に閉ざされるより開かれることが大事なのだと思うのですが、自分は社会に帰れていないと感じていて、どのように対処すればいいのかと。社会の外に出て帰ってこれなくなってしまう、生活ができなくなってしまうので。

宮台:往相還相で言うと、「生活ができないから帰ってこなきゃいけない」とはならないようにね。そこはもっと正確に僕が言うべきだった。「帰ってきたい」と思う動機付けや理由がなければ帰ってこなくていい。これが僕の映画批評本でジャック・マイヨールとエンゾ・マイオルカの違いとして述べたことです。両者は無呼吸潜水世界記録を競うライバルでした。

リュック・ベッソン監督『グランブルー』では、負けたマイヨルカ(映画ではモリナリ)が「水中から上がる理由が見つからないというお前の言葉の意味が分かった」と言い残す。マイヨールのステージの方が高かったとの設定ですが、兄ピーター・マイヨールは著書『イルカと海に還る』で、「理由が見つからない」弟の方が遙かにステージが低いと断じました。

「理由が見つからない」弟は晩年に鬱化して自死します。その二年後の本です。エンゾ・マイオルカは「社会の外」に出て未規定な畏怖すべき「世界」に触れ、体験を「社会」に持ち帰って一族とシェアしてきた。かくて一族は先祖代々から海に潜る営みを子々孫々に伝え続けてきた。だが各国に女がいた弟はナンパ師ではあれ、人に奇蹟を見出す力が欠けていたと。

そこから先はあなたに考えてほしい。マイヨールは「社会の外」に奇蹟を見出した。マイヨルカはその上で帰還して「社会」に奇蹟を見出した。仏教の往相還相で言うと、マイヨールは往ったきりで還れなかった。マイヨルカは往った後で還る動機を持った。なぜか。僕の映画批評本『世界はそもそもデタラメである』のタイトルが、そのまま答えになっています。

初期ギリシャの思考では「世界(あらゆる全体)」は美しくも残酷なカオス(規定不能性)です。「社会(コミュニケーションできるもののの全体)」はそこに浮かぶ小さな島の如き規定可能性。秩序(規定可能性)が通常で無秩序(規定不能性)が異常なのではない。無秩序が通常で秩序が異常です。だから秩序が奇蹟。社会学者デュルケムに継がれた思考です。

「世界こそ奇蹟」を求めた三〇歳代の東南アジアのバックパック旅行で二度死にかけて享楽しました。それで僕にも「社会こそ奇蹟」の思考が埋め込まれました。それもまた「自分は今まで何をしてきたのか」と九七年からの鬱化の種になりました。それが少し明けて離島に沈潜してヒルギの森で覚醒した後にマイヨール兄の本を読み、自分の思考が結晶化しました。

その顛末は僕の映画批評本『崩壊を加速させよ』に書いてあるので良ければお読み下さい。
「社会」に帰らなければいけないなどということはない。だからマイヨール弟は死んだ。でも「社会」に帰還して「世界」の体験を誰かとシェアしたいと思うことはある。その奇蹟的な動機を主題化したシオン・ペン監督『イントゥ・ザ・ワイルド』も観るといいでしょう。

***********************
阪田:配信の方の質問で、代々木忠監督の映像との落差は、どう乗り越えたんでしょうか。とのことですが。

宮台:短くは言えないよ。いろんなよくないことがあった。親しい人や僕の読者が立て続けに三人自殺した。先に話しました。でも読者の自殺は説明していませんね。僕が書いたことを模倣して、ホストの上玉みたいな美形の存在がナンパに乗り出し、成功しまくった結果、「実りがない」と考えて死んだ。その過程が四冊のノートに残され、僕は追い詰められます。

「自分が書かなきゃいけないことを書いていなかった」と落ち込みます。後にそれを自分で「ナンパ地獄」とはっきり呼ぶようになります。何百人もの女と寝ることがなぜ地獄か。でもその頃の僕は地獄ではないものを提示できなかった。常に五人以上の女がいて、寂しくなったら順番に電話をかけて、誰かと繋がったら転がり込んで…みたいに生きていたからです。

誰かを好きという感情が湧かず、嫉妬も湧かない状態にあった。そこから抜け出せたのは幾つかの偶然の重なりです。一つは或る女との顛末です。ダミーキットと知らずに二人がエイズに罹ったと思い込み、僕のせいだと謝罪した所が、女が自分のせいだと壮絶過ぎる過去を打ち明けたこと。僕が知らなかった種類の複数プレイを重ねたことで感情が戻りかけます。

それに先ほど話した鬱明け後の覚醒が重なります。それぞれが自死を選んだ時の状態に真剣に「なりきる」営みを重ねました。そういう「力」が残っていた、或いは戻っていたのは、ラッキーでした。それを通じ、風化していた愛の感情や嫉妬の感情が戻り、性交の仕方が全く変わりました。その経緯を一言で「こうすればできる」というif-then文には書けません。

阪田:はい、ではそろそろ時間なので終わりにしたいと思います。
『絶望から出発しよう』という宮台さんの著作もありますが、(本イベントの)題名を「宗教と自意識の檻」に決めました。最後にイエスのお話もありましたし、その前段はずっと性愛の話でしたが、「言葉の外に開かれる」と言った時の感じや「イエスという存在に触れた時」の感じが、自分たちとは違う地平、ここではなくて違うところにあるものだという感覚が大事だろうと思っていました。

そういうものを後から「宗教」と呼んで、なんとかこの世界を、人生を生きてきたという我々の歴史があると思うんですね。それが今、簡単に他のものに置き換わる時代になってきている。それが「自意識の檻」やメタバースであるということだと思っています。

そっちにも行けるし、そうじゃないところにも行けるというのが我々が今いるところだと思うので、宮台さんであるとか、身近な人(の力が必要)ですよね。コメントにも書いていただいているんですが、「性愛の享楽から疎外されている感じである」とか、本当に自分の身の回りにそれが起こるのかと思っている方がたくさんいるのはよく分かりますし、本当に多いと思います。

宮台さんも最近おっしゃいますが、それでも以前に比べれば、「そういう世界があるんだ」ということは、多くの人が理解をし始めている。あとは、じゃあどうやってそこに踏み出すかということになると思いますので、そうなると未規定なところに出ていく怖さも「意外と大したことないから行ってこいよ」という仲間が必要です。

宮台さんが最近よくおっしゃるのは、女から女の伝承線。「いろんな男がいるけどいってみな」というのは、男から聞くよりも、女の人から女の人に伝わったほうがいいこともたくさんあると思いますので。YMCA宮台ゼミと皆さんに呼んでいただいて、こういう界隈ができてきたのは本当にうれしいことです。

でも「じゃあ、ここからどうしたらいいんですか?」という質問がたくさん出てくるんですが、その質問を1歩踏みとどまって、自分としてどういうふうにしていこうか(を自分で考える)。「それでもどうしても辛いんだ」というふうになると思うんですが、「まあまあそんな時もあるよ」と言う人がいることだと思うんです。その一言さえあれば、ぜんぜん違うと思うので、今後この界隈がそういうふうに発展していただけるとすごくうれしいなと思います。

私もまだ手探りで、宮台さんとのこういうセッションをどういう形で届けていけばいいのかを考えながら模索をしています。「全国行脚したいですね」と言ったりもしてるんです。こうやって一度は同じ空間に集まって、同じ世界で言葉を共有して、また再びオンラインで再開するというのも、現代ではプラスに働くテクノロジーの使い方じゃないかなとも思います。

なので、次はどういうかたちでまたお届けできるかは分からないんですが、皆さんに「届けたいな」と思うことと、皆さんが「欲しいな」と思うことが、なるべくうまく噛み合っていくようにしたいと思いますので、またぜひ感想を寄せていただいて、引き続きご参加していただければなと思います。宮台さん、最後に一言お願いします。

宮台:前回のイエス論では定住以降の一万年の歴史を遡り、皆さんが宗教だと思うものがショボイ思い込みであることを話しました。例えば定住生活以前にも呪術magicがあった。雨乞いが典型で、何かを手段に何かを引き起こす営みです。定住初期にも呪術師がいた。この呪術段階では人々は良い出来事/悪い出来事という具合に出来事に縛り付けられていました。

それが原初的宗教だとすると、書記言語を用いた大規模定住化(文明化)で社会が複雑になった段階で、出来事への一喜一憂を超えて、僕らが今「こうだ」と思う世界がなぜあるのかに──「出来事」から「枠組」へと──開かれます。呪術で動かせない世界があることが理解され、世界(あらゆる全体)が社会(コミュケーション可能な全体)から区別されます。

この開かれは当初、共同的な営みでしたが(古代的宗教)、やがて開かれが個人へと閉ざされる「個人化」を向かえます(中世的宗教)。その後再び人々は世界ならぬ自分へと──枠組ならぬ出来事へと──閉ざされるようになりました。「なぜ自分だけが貧乏で虐待的な親を持つの?」的な親ガチャ問題のように、自分に起こる出来事を憂う方向に閉ざされました。

原初的宗教では「共同体を襲う疾病や天変地異」が問題の出来事でしたが、近代的宗教では出来事は出来事でも「個人を襲うアンラッキー」に閉ざされるのです。こうした宗教進化はウィトゲンシュタインがいう生活形式の相関した言語ゲームの変化ですが、これを頭に入れれば、「自分が救われたい」という営み自体が、社会に操縦されたものだと分かるでしょう。

これらを全て踏まえると、召命callに対してどう応答responseすべきかの構えが出来て来ます。但し応答はもはや選択ではなくなります。構えが出来るとコールされたら特定のレスポンスをするしかなくなります。能動から中動へ。見るのではなく見える、聴くのではなく聴こえる。これは実存の問題で、事前に弁えるべき条件プログラムの問題ではありません。

神論やイエス論として本日話したことの99%が論理で攻め切れます。でも最後の1%が加わると信仰になります。「世界からの訪れ」による回心と召命です。これら選び取る能動態ではなく、訪れる中動態です。「ラスト1%の跳躍」と僕は呼びます。それが訪れるのは、災害時や、失恋時や、死に際の絶望時だったりします。構えを研ぎ澄ましてお待ち下さい。

阪田:ここで終了としたいと思います。配信の皆さんもありがとうございました。会場の皆さん、長時間ありがとうございました。宮台さん、ありがとうございました。

(会場拍手)